雑記帳

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今さら映画レビュー「天気の子」

 いつだったか、私はTwitterで「天気の子」のレビューを書くと息巻いていたが、月日の流れは残酷なもので早くも数ヶ月が過ぎ去った。レビューどころかこのブログの更新さえしていない。というか、長い夏が終わりあってないような秋を迎えもはや冬になろうとしている。時の流れが早すぎる。


 さて、いささか遅れてしまったが、何事も有言不実行、あったことをなかったことにしてはならないと思うので、スキマ時間にリフレッシュがてら書いていこうと思う。

もっとも、公開から数ヶ月が過ぎてレビューもネタバレも出尽くしている感があるので、その辺にはほぼ配慮せず、かつ短めに仕上げていくつもりだ。

 


 世間的な「天気の子」の評価は既に固まったものとなったといえよう。「君の名は」で記録的大ヒットとなった新海誠監督の意欲作であって、前作ほどではないものの大ヒットであり、エンタメ的には大成功といってよい。もっとも、結末には賛否両論ありえるところ。こんなところだろうか。

私が劇場に足を運んだ頃にはこのような評価でおおよそのまとまりを見せていたと記憶しているが、それでもなぜ「天気の子」という作品についてレビューを書きたいかと思ったかといえば、それは大きく2点ある。

ひとつは、新海誠監督が選び描いたテーマについて語りたいと思ったから。

もうひとつは、00年台を生きてきたアニメオタクとして感動したから、である。

それでは書いていく。

 

第一点、テーマについて。

 本作は主人公の帆高とヒロインの陽菜との青春ラブ・ストーリーを軸に据えたファンタジーだったが、そのテーマは非常に明確だった。それは「調和」である。

本当は、社会規範と個の利益うんぬんと言っていたのだがどうもピンとこなくてベッドの中で思案していたところ、このワードがうかんできたのであるが、実は「天気の子」公式パンフレットの監督インタビューでモロにこの「調和」というワードが登場する。ほぼ冒頭の箇所で。答え合わせとみるべきか、己の語彙の少なさを恨むべきか…。

 


この作品、すべての主要な登場人物はみな、社会との調和の程度にグラデーションがある。調和の程度というのはどういうことかというと、社会のルールや秩序、倫理観、常識、そして世間の空気感に対して、どのようなスタンスをとっているか、ということである。

登場人物で説明すれば、積極的に理由は説明されなかったが、田舎の空気感や世間の常識が嫌になって東京に飛び出してきた家出少年の主人公・帆高は、明らかに社会との調和の程度や理解は低い。調和を乱す側の存在だ。

 

これに対し、リーゼントがトレードマークの警察官、若井刑事は帆高の対極に位置するキャラクターだろう。社会秩序と調和を遵守し、積極的に是正することを生業とする警察官という職業に身を置き、多少強引な手法を用いてでもその目的を達しようという姿は、社会の調和を重んじているという価値観の表れだといえる。

 


この2人は極端な例だが、ほぼ全員が全員、「調和」へのスタンスについて少しずつ差異を設けて描かれているのは、確実に意図的なものだろう。

ヒロインの陽菜ちゃんは、小学生の弟を「調和」から外れさせたくないがために、自らは法律に反する行為に手を出し、さらに反倫理的な世界にまで巻き込まれようとしている。調和のとれた世界に居たいが故に、調和を乱す行為に手を出さざるを得ない者として描かれている。

 

ここで重要なのは、法や建前がいう「調和」と現実の人々が肌感覚として感じている「調和」にはズレがあるということだ。

法律やある制度の趣旨・建前からすれば、ある措置をすることは当然とされている、つまりそれこそが「調和」なのだが、現実にその措置を受けると社会の空気感として疎外される、「調和」を乱すこととなることがある。

たとえばそれは生活保護だったり、海外からの難民申請だったり、児童相談所児童養護施設による保護だったりする。

 

この社会は「普通ではない」彼らに対して、「調和」乱す者だとして冷たい目線を向けている。

 


ここでは省くこととするが、編集長の須賀さんや、ちょっとエッチな女子大生夏美もそれぞれ「調和」へのスタンスやエピソードが描かれているので、未見の方は頭の片隅に置きつつ見てみてほしいし、既に見た方はぜひとも思い返してみて欲しい。

 


ここまで露骨にグラデーションをつけてまで「調和」を描いてきたこの「天気の子」という作品が、このテーマにどうやって決着をつけるのか、言い換えればオチをつけるのか固唾を飲んで見守っていた訳だが、思い切ったなというのが素直な感想だった。

「賛否両論になるだろう」という監督の言はおそらく、今の社会の息苦しさを前提にしたもので、きっとその認識は正しい。

 

ネタバレになるが、帆高たちは3人での生活を守るため、法を犯しながら逃避行することを決断する。しかし、陽菜は水没していくどころか真夏に雪が降る異常な東京を目の当たりにし、警察に追われる中で子供3人で当てのない逃避行をすることの困難さを肌で感じたことで、世界の調和のために、自らの存在を捧げる決断をする。帆高と凪との3人での生活という、選びたかった自分の理想を形にしたような一晩を思い出に。

翌朝、部屋に陽菜の姿はなく、長い間厚い雲に覆われていた空には一点の曇りもない夏空がただ広がっていた。


ここまでなら尊い自己犠牲の悲恋である。

最大多数の最大幸福こそ、現代社会において最も理解を得やすい理念だろう。


しかし、「天気の子」はこれを徹底的に否定する。社会の調和なんてクソくらえ。俺たちの幸せの邪魔をするな。そのためなら世界なんてどうなったって構わない。

帆高はルールというルールを破り、陽菜を世界から奪い返そうとする。

帆高が鉄道のレール上をひたすら走るのも、拳銃を構えるのも、「調和」を破る象徴的な行為だ。

 

社会との調和に背を向けてでも選んでいい選択肢だってあるのではないか?その「調和」はそれほどまでに重要なのか?それは個人の、かけがえのない個人の意思を命を犠牲にすることを肯定するほどに価値あるものなのか?


命は極端であるとしても、この問いかけは現代において極めて本質的だと私は感じた。

SNSでの炎上といえば、かつてはバカッターと揶揄されるような違法行為に向けて発生するものだった。

しかし現在では、なんのことはない内容の表現に対して「正義の言論」が振りかざされ、盛んに燃えている。「正義」を振りかざす彼らはそれが社会の「調和」のためであると信じて疑わないし、ポリティカルコレクトネスなど、進歩的価値観こそ目指すべき思想・表現であり、これに反すると思われる表現は社会の調和を乱す不正義なのだから、囲んで叩き潰して問題ない。

その対象はフィクションであっても同じことで、架空の物語であっても「正しく」あるべきだ。

そんなエスカレートする空気感への警鐘のように思えるのだ。

「正義」や「調和」といった概念は絶対ではないし、時には不正義をあえて選択する物語があったってよいに決まっている。

それが物語の良さであり、だからこそ観た人の心を動かすのだ。


 本作は、帆高と陽菜が選び取ったその後の世界をも描いているが、そこで描かれているのは水没して滅亡した東京ではなく、降り止まない雨に順応した東京だった。

つまり、世界は雨が降り止まないという新たな理に順応し「調和」している。

やはり、社会の調和などというものはこれっぽっちも確固たるものなどではなくて、その場その時代その状況や空気感で変わっていくものにすぎないことを肝に銘じるべきだろう。

 


以上が第一点、本作のテーマ「調和」についての感想である。

思ったより長くなってしまった…。

 


さて、それでは第二点の方に移ろう。

この作品、公開直後に

「オレはこの映画の原作エロゲをプレイしたことがある」

「これはすべての個別ルートをクリアすることで初めて到達できるトゥルーエンドの映像化」

「PC版発売から数年後に発売された全年齢版を基にした映像化作品」

などという幻影に囚われたレビューが多数投稿され、話題となっていた。

 


そんな訳あるかい!wと小バカにして読んでいたのだが、「天気の子」を見て劇場を出るや、確かに私はこの原作ゲームをプレイしたことがあり、そしてこれは全ての個別ルート、バッドエンドを回収した後でのみ到達できるトゥルーエンドで、当時も感動のあまり涙でディスプレイを見られなくなったという記憶が捏造された。

 


それほどまでに、00年代にアニメ、マンガ、ラノベ、ゲーム、ネットといったサブカル 文化にひたひたに浸って育ってきた人間にブッ刺さる構成だったのだ。

いわゆるエロゲをはじめとするアドベンチャー・ノベルゲームというのは、プレイヤーは 主人公の視点からシナリオを追っていき、時折あらわれる選択肢を選ぶことによってストーリーが分岐し、ヒロインやストーリーラインそのものが大きく変化して、異なる結末を迎えるマルチエンディングのものが主流だ。

そして、その中でも大作、名作とされた作品には、登場キャラクターの個別ルートを全て攻略した後でなければメインヒロインとの大団円的なエンディングを見ることができないものが存在した。

 


そして、00年代のオタク界隈はいわゆる「ポストエヴァ」の時代であり、セカイ系が最も 発展した時代であった。

セカイ系という言葉には明確な定義はないとされているが、ここではひとまず「私と君(とそのごく身近)の関係性が、そのまま世界の命運を握るような事態に影響を与える物語」としておこう。

もはやありふれた形式に思われるかもしれないが、冷静に考えてみれば、世界を変化させるには、普通「私と君」だけではできっこないのであり、私たちという個の存在と世界との 間には必ず「社会」という中間項が存在する。

この中間項をすっ飛ばした点に多くの批判がなされ、そして再評価された。

 


話を戻そう。

つまるところ私が言いたいのは、「天気の子」は「00年代セカイ系全盛期のエロゲ」的エンタメとしてのおもしろさに満ちた作品なのだ。

 


作品を見た人ならわかると思うが、ラストの展開は陽菜を救い出そうとする帆高に対して数多くの困難が襲いかかる。それを帆高と陽菜が関わることで影響を与えてきた人たちの助けで跳ね除け、大団円を迎えるのである。

この展開が「ご都合主義」と批判されるのはわかる。

しかし、違うのだ。このルートに入るまでに、プレイヤーは帆高として全てのキャラクターと多くの時間を過ごし、彼らの内面に深く立ち入り、彼らのひとつの結末を共に迎えてきている。

だからこそ、彼ら全員と過不足ないコミュニケーションと理解を深め、そして物理的な困難を打破できる下準備をすることができているのだ。

これはご都合主義ではなく、必然なのだ。

夏美ちゃんと原付で爆走できるのも、凪センパイが脱出できるのも、須賀編集長が最後の最後に決断を下せるのも、すべて、個別ルートで彼らとの大切な時間を共にし、彼らという人間を知ってきたからなのである。

 


各登場人物の個別シナリオを妄想し、あったであろう情景を思い描くことがこれほどまでに容易い作品は他に見たことがない。

凪センパイルートでは大人びた凪が、姉・陽菜や早くに失った両親への想いを吐露し涙するシーンなどは涙なしには見られなかった。

須賀編集長ルートは日常のコミカルさと、須賀の妻と娘への想いのシーンのギャップにやられた。

夏美ちゃんルートはすごくえっちだった。


こんな感じでいくらでも妄想できる。

ていうかゲーム化してくれ。

 

ちなみに、新海誠監督はこの作品をセカイ系と捉えたことはないという。

確かに言われてみればその通りで、社会をすっ飛ばして主人公らと世界を直結するのがセカイ系なのだとすれば、本作は「社会」は明確に主人公らの敵として描かれているし、世界が変革したあとの社会のあり方をも描写しているのだから、セカイ系の定義には当てはまらなそうにもみえる。

そうはいうものの、根本的な物語の構造は典型的なセカイ系としかいえないし…

いろいろ考えたが、この「天気の子」という作品はセカイ系のその一歩先に位置するものなのだとするとすわりがよい気がする。


帆高はあの日、陽菜を救うために「社会」を敵に回す決断をし、「調和」を乱し、世界を変革した。

その結果、帆高は陽菜を世界(今作では東京)を破壊する共犯者にしてしまった。

だからこそ、保護観察処分の間、帆高は陽菜に連絡を取ることができなかった。

自分たちのために世界を壊すなんていう大きすぎる罪を背負わせておいて、なんと声を掛けていいのかわからなかったからだ。

 

しかし、帆高のそんな考えを大人たちは否定する。

晴れ女最後の依頼者である立花さんからは、社会が変わることは当たり前であり、むしろ昔の姿に戻っただけかもしれない、正常かどうかなんて誰が決めるのか、と。

須賀編集長からは自分の責任だなどとうぬぼれるな、こんなもの代償ではない、世界なんてもともと狂ってる、と。

 

この言葉に帆高も揺らぐ。陽菜に君のせいじゃないと言うべきかと。

 

しかし、ラスト。

雨の中、水に沈んだ世界を前に、空に祈る陽菜の姿と降り注ぐ光を見た帆高は、この世界を変えたのは自分であり、そのことを背負って生きていくことを選び取る。

なぜなら、陽菜もまた帆高と同じく自分こそが世界を変えてしまったのだと認め、そのことを背負いながら生きていこうとしているとわかったからだ。

だから、帆高は陽菜に「大丈夫」と声をかけたのだ。

2人とも同じ方を向いている。同じ思いを抱いている。

客観的に、物質的に、過去を、今を、未来を保証してくれるものは存在しない。

だからこそ、この世界で唯一、彼女と共に選択をし、そして選んだという自覚のある者として、お互いを認めあえる存在なのだという現れとして、「大丈夫」だと口にしたのだ。

「君を大丈夫にしたいんじゃない。君にとっての大丈夫になりたい。」という歌詞は、こういう意味なのだろう。

結局、2人が互いに大丈夫だと口にしたところで何も保証なんかしてくれない。それでも2人ならきっと大丈夫だという希望を最後に見せつける。

 

「あの夏の日、あの空の上で、私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」

という、この映画のコピーの後に続く2人の世界は、きっと「大丈夫」なのだ。

 

 

以上をもって、今更「天気の子」レビューを終える。

これに10代で出会えた若者たちは本当に幸せだと思う。うらやましい。

最高のエンターテインメントの1つだと断言できる。

斜に構えた映画評論家たちがあーだこーだ抜かしているが瑣末な問題に過ぎない。

是非とも見て欲しい1本だ。