刑事司法と報道の現状について
さっきの記事がめちゃくちゃ長くなってしまったので別記事にすることにした。単体でも読めるものにはなっているはずだ。
昨日に引き続きもういちど書いておくが、本来は、逮捕などの身柄拘束をされない状態での捜査が原則なのだ。
逮捕、勾留されてしまうと最低3日間、まずいと23日間も外に出られなくなる。仮に23日も無断欠勤したら?無断欠席したら?会社に席はあるだろうか?大学の単位は取得できるだろうか?年老いた親や幼い子供、ペットの世話は誰がするのか?
そういった意味で身柄拘束は極めて人権を制約する程度が強い。だから、警察は本来むやみやたらに身柄拘束するべきではないのだ。
それにもかかわらず、警察は極めてフランクに、気軽に逮捕する。裁判所も即OKを出す*1。
保釈も同様で、原則として認められるべきなのになかなか認められないのが現状だ。
このように、原則と例外が転倒している状況が刑事司法には存在している。
そして、報道機関、メディアもそれに加担している。この異常な現状に異を唱えることなく、警察からリークされた逮捕の情報を連日熱心に報道をしている。
「無罪推定の原則」があるにも関わらず、逮捕された段階で実名で職業や住所まで公開する徹底っぷりだ。卒業アルバムまで公開する。さぞ愉快なことだろう。
他方で、逮捕が報じられた事件がどのような結末を迎えたかを報じるメディアがどれほどあるだろうか?有名重大事件しかやっていないどころか、それでさえ怠っていることがないか?
逮捕されても不起訴となるケースが極めて多いことを述べたが、なぜ不起訴となるのか丁寧に報じたメディアはあったか?必ずしも裁判を行うことが被害者のためにならないということを伝えたメディアはあったか?
報道機関のこのような捜査機関追従の姿勢が国民の認知を歪ませ、原則と例外が転倒していることにさえ気づけないようにしていることについて、報道機関は猛省すべきだ。
民主主義社会においては主権者たる国民が動かなければ法律も行政も変わらない。仕組み上変えられない。変えるためには国民の多くが正しく現状を認識しなければならないが、国民の知る権利に奉仕すべき報道機関はその役割を自ら放棄して捜査機関の暴走を追認どころか応援している。誤りを誤りと気づけない方向へと誘導している悪魔のような存在とさえ思う。
この記事を読んだあなたから、少しでも変わってもらえたなら嬉しいと思う。
以上