雑記帳

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けものフレンズ2の問題点 その1

・はじめに

 本稿は、けものフレンズ2(以下、「本作」という。)という作品の問題点について簡単にまとめるものである。

 あくまでも本作全12話及びけものフレンズ1期(以下、「前作」という。)全12話を視聴した筆者の私見である。

 基本的には本作及び前作視聴者向けに書いているが、前作のみの視聴者でも、いずれも未見であってもわかるように記述するよう心がけている。

 

 本稿は、本作の製作過程において発生した数々の問題、疑惑からは距離を置き、純粋に作品の批評を行うことを目的としている。すなわち、作品の描写から読み取れる内容でもって評価を行う*1

 

以上を前提とし、お読みいただければ幸いである。

 

第1.本作の問題点
本作の問題点は大きく2つに分けられる。

第1に脚本、シナリオの問題である。第2にこれまでの「けものフレンズ」の否定としか捉えられない描写の問題である。

以下、順に論述する。


 なお、モーションの陳腐さもまた問題点となりうるが、上記の点に比べれば些末な問題に過ぎないため本稿では取り上げない。

 

第2.脚本、シナリオについて
本作のシナリオの問題点は多岐に渡るが、1.テーマ選定、2.物語としての稚拙さを語れば十分と思われるため、論述するのは以上の点に限る。

 

1.テーマ選定
 本作は、「けものフレンズ」という看板を掲げて扱うべきでないテーマを扱っており、そもそもテーマ選定の時点で誤りを犯している。
 監督の木村氏及び脚本のますもと氏は本作のテーマを「人間にとって家とはなんなのか」「ヒトが持つ社会性」をテーマにしたと語っているが、本質的ではない。少なくとも、作品の描写ではこれらをテーマと位置づけることは困難だ*2

 

 それでは本作のテーマはなんだろうか? 

描写から読み取れる本作のテーマは、「ヒトの動物に対する業」であると考える。これらは出演動物の選定と脚本の基本構成から読み取れる。

(1)本作の出演動物は、明らかに現実においてヒトとの関係が密接な動物が選ばれている。すなわち、家畜化、狩猟対象、絶滅危惧による保護対象となった動物たちである。
イエイヌやブタは家畜化されたことで野生の生存競争から逃れたが、人の経済社会に組み込まれ、野生動物としての自由を失った。
ゴリラやパンダ、アムールトラは人間の開発や狩猟により数を減らし、その反省として保護される存在となった。
ハブやリョコウバトは、人間の都合で狩猟され、数を減らす存在である。特にリョコウバトは、人間の動物に対する最も愚かな所業として語られる、極めて有名な動物である。

 

(2)本作の脚本の基本構造は、そのような動物をモチーフとしたキャラクターに対して、ヒトをモチーフとしたキャラクターが高位の存在として、与え、施し、使役し、滅ぼすことで、動物間に生じた問題を解決する、という構造をとっている。
 基本的に、動物をモチーフとしたフレンズたちは、ヒトをモチーフとしたキュルルやかばんに比して「愚か」な存在として描写されている。
キュルルがほぼ毎話、一緒に旅をするサーバルカラカルに対して呆れたり怒ったりする描写があるのはその表れだと読むことができる。

ほぼ毎話、キュルル*3が(子供騙しな)娯楽を提供することで、「すごい」と言わせるあたりも同様である。
さらに、キュルルはともかく、前作では「さん付け」していたかばんちゃん*4までもがフレンズを呼び捨てにしていたのは、キュルル単体の問題ではなく、ヒトという種族を包括して上下関係を描写したといわれても仕方あるまい。

 

そして、最も顕著なのは、「ヒトは動物を支配する存在だった」と言明し、そうなったという点だろう。

本作第5話では、諍いを鎮めるために協力を求められた際のゴリラの言だが、キュルル本人は支配者であることを否定し、さらに、支配者然とした態度をとることには失敗する。

 しかし、ここでキュルルが失敗したのは「力による支配」を演じようとしたからでしかない。現実において、ヒトが動物の支配者たりうるのは、力による支配が可能だからではない。知恵による支配をしているからである。

結局、このあとキュルルは(子供騙しな)娯楽を提供することで諍いを治めることに成功し、一目置かれた存在となった。つまり、知恵によって動物たちを支配下に置いているのである。

 

 同様に、第3話及び第9話ではヒトの家畜に対する態度が描写されている。ヒトの存在と命令なくしては生きられなくなった動物をモチーフとするフレンズたちに、唯一のヒトとして命令を与えるという描写は、動物の支配者としてのヒトそのものである。

 

(3)以上を総合すると、本作は、人間が動物に対してしてきた所業を、キュルルが素朴な行動としてなぞっていくことで、人間は動物に対して優位の存在であり、また、本来的に脅威であるということを表現している。まさに「ヒトの業」にほかならない。

 

(4)そして、このテーマは「けものフレンズ」に適さない。

 なぜならば、前作ではこの「ヒトの業」をあえて否定し、「動物としてのヒト」を描くことで世界観を確立したからである。これが、前作の評価によく現れる「優しい世界」につながっている。
 我々は教育を経てきた過程で「ヒトの動物に対する業」を学ばされてきた。絶滅した、あるいは絶滅の危機に瀕した動物たち、環境破壊による動物の生息域の消失、捨てられたペットの殺処分、虐待…。
そのような過去と現状があるからこそ動物は守らねばならないと誰もが教えられてきた。

 しかし、それは決して心地よいものではない。なぜなら、大多数の人間にとっては直接関係がなく、実感できないことであるにもかかわらず、説教じみたことを言われているからである。自分がやってないことなのに怒られている気がするのである。

 

 前作では、ヒトと動物とを別異な存在と位置づけるのではなく、ヒトをただ一種の動物に位置づけ、「ヒトの業」から解放された対等な「動物」として描いていたからこそ、それぞれがそれぞれの特徴を活かして協力しあう姿に、これまで経験したことのない感動を覚え、優しさを感じ、心を動かされたのだ。

とうの昔に語り尽くされ食傷気味だった「ヒトの業」というテーマをあえて排することで、「動物としてのヒト」という骨太のテーマを描ききったのが前作けものフレンズなのである。

 

 したがって、本作で「ヒトの業」をテーマとして選定することそれ自体が後退であり失策にほかならない。


 なお、語られきったテーマをあえて描くという選択をした可能性も捨てきれない。しかし、それでも失敗であるという結論は変わらない。
そのような選択をする場合、「『語られきったテーマをあえて排して選択されたテーマ』をあえて否定した、語られきったテーマでありながら新しい、第3のテーマ」となる必要がある。単に「語られきったテーマ」を描くだけではただの凡庸化か退化だからである。

(①語られきったテーマ→②①をあえて排したテーマ→③②を排し①でありながらも第3のテーマ)
本作ではただの退化であったと断じよう。


2.物語としての稚拙さ
語るまでもないかもしれないが、そもそも物語として稚拙である。

 まず、全体として、物語の展開の軸が多すぎる。シーズンを通して解決すべきだった問題は、キュルルの正体、「おうち」、ビースト、海底火山、海水を克服したセルリアン、フレンズ型セルリアンあたりであろうか。
少なくともこれらについては明示的に問題とされ、伏線も描写されていたが、解決されたのはキュルルの正体とフレンズ型セルリアン問題くらいだろうか。キュルルの正体も怪しいところではあるが。
 クール制で制作されることがわかっている以上、少なくとも本筋に関わる問題について、そのクール内で決着をつけられていなければアニメとして論外であろう。

 

 次に、エピソード単位の問題として、キャラクターがアホ過ぎる。というのも、「こういう展開をしたい」というのが先行してキャラクターを動かしているがために、キャラクターの行動が突飛になっている。その結果、キャラクターが動物の擬人化ゆえの行動をとっているとかではなく、ただのアホになっている。
前作ではヒトの特徴たる頭脳をもってフレンズと協力して問題解決にあたっていたかばんちゃんでさえ、考えなくてもわかるようなことをわかってなかったり、自分が持ってる本を読んでなかったり、とにかくアホになっている。

 他にも尺の使い方が下手とかいいたいことはまだまだあるが、とにかく物語として出来が悪い。

 

 以上2つの根拠でもって、脚本・シナリオの完成度の低さを結論づけたい。

 

続き(第2.これまでの「けものフレンズ」の否定としか捉えられない描写以降)については後日書きます。たぶん。

 

*1:文章の読解と同様の作業である。妄想とは区別されなければならない。

*2:物語にはテーマが存在するのが常である。テーマはその物語の主題であり、物語全体を通じて受け手に伝えたいことである。もっとも、テーマは作品に明示されるものではないため、受け手が読み解かねばならないものであるのが基本である。制作陣が語ったものが全てとは限らず、表現物から読み解くのが基本である。

*3:本作の主人公

*4:前作主人公