雑記帳

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今さら映画レビュー「ジョーカー」

 世間は11月15日発売のポケモン剣盾で賑わっている。

しかし、ここはあえて10月4日に公開され大きな話題を呼んだ映画、「ジョーカー」についてレビューしようと思う。

なお、先日の「天気の子」レビューはガチで長々と書きすぎたので、今回こそ手短にまとめたいと思う。

 

 

本作を見に行った理由だが、アメリカで公開すべきでないとの声がマジメに上がるくらい社会情勢を反映しているらしいが、マジだった、という簡素なレビューを目にしたからだ。

リーマンショック以後、サブプライムローン崩壊、不法移民問題MeToo、ポリティカルコレクトネス、そしてトランプ大統領

日本だってパンドラボックスによって東都、北都、西都に分かれて混迷を極めていた時期がつい2年前まであったくらいなので、世界が混迷を極めていなかったときなど存在しないというべきなのだが、それでもやはり偉そうな肩書の学者や評論家たちがこぞって「混迷している」と評価しているこのご時世なのだからやっぱめっちゃ混迷しているんだと思うのだが、その混迷にTNTを放り投げるような作品だと期待して、公開から数日後には夜勤明けの眠い目を擦って劇場に足を運んでいた。

 

結果、期待以上のものが見られた。

以下、感想である。

 

 

本作の凄まじい点は、もはや評価され尽くしているとは思うが、主演・ホアキン・フェニックスの怪演である。

ほぼ全編出ずっぱり。出ていないシーンを探す方が難しいレベル。

劇場から出たあなたはずっとジョーカーの笑い声が脳内でリフレインし、街中で電車内でそして自宅で、誰かの何気ないただの笑い声に鳥肌を立てずにはいられなくなるだろう。

少なくとも私は劇場を出てから家に着くまで、ただの若者の笑い声が聞こえただけでそちらに視線を注がずにはいられなかったし、全身に嫌な緊張感が走っていた。

 

私が積極的に評価したいのはもう一点。

本作は主人公のコメディアンを目指す売れないピエロ・アーサーが、 悪の化身・ジョーカーとなるまでを描いた作品である。

題材はよくある人気ヴィラン誕生譚にすぎないのだが、この作品の評価のポイントはこの主人公・アーサーの属性にある。

アーサーは、精神疾患を患い、公的機関からの援助なしには生きられないわずかな収入しかなく、年老いて心身を病んだ母親を自宅で介護している、決してモテることのない白人の独身中年男性だ。

 

端的に言おう。アーサーは、現代社会において不可視化された存在の象徴だ。

ポリティカルコレクトネス、政治的正しさが重んじられ、男女平等、人種差別の排除、LGBTQの人権尊重が推し進められた結果、今日の社会では存在しているのに関心を向けられない、顧みられることがない、なかったことにされる存在が出現した。

ここで重要なのは、決して排除されているという訳ではないのだ。存在しないものとして扱われる、無視に近い状態だ。

 

上記のアーサーのような境遇にある者は、世間から存在しないものとして扱われ、不可視化され、社会のレールの上に乗ることはできず、レースに参加することは極めて困難だ。

身分の安定した定職に就くことも、パートナーを獲得することもできない。この先一生、ホワイトカラーとして上層階の美しいオフィスで働くことはできないし、苦楽を共にするようなパートナーと添い遂げることもできない。ただ、最低限の公的扶助で生きているだけの存在となる。

 

だがしかし、このような状況は誰かが積極的に彼らを差別するから発生するのではない。

なぜなら、現代において差別は悪しきこと、政治的に正しくないこととされているからだ。

彼らを選ばないのは彼らがそのようだからであり、そのようになってしまった彼らを積極的に選び、救う理由は人々には、ない。

だからといって排除することは正しくない行いだから許されない。

だから、見て、見ない。

人々は彼らを不可視化した。

 

私たちは彼らを不可視化している。

 

 

本作では社会から不可視化されたアーサーの生活が描かれるが、そこに救いはない。

唯一の娯楽はお気に入りの人気司会者が出演するトーク番組をテレビで見ることだけ。

仕事には失敗しクビになるし、公的扶助は打ち切られるし、誰かとコミュニケーションをとろうとしても独身で身なりの悪い男性という時点で強く拒絶される。

 

そんな境遇の彼だからこそ、偶然エレベーターに乗り合わせ、自分のジョークにリアクションをくれたシングルマザーの女性に執着するのだが、女性との接し方などわからない彼の行動と妄想は、観客に強い嫌悪感と恐怖を与えただろう。

女性とのまともな接し方を学ぶ機会すら与えられずに歳をとってしまった彼にはそうすることしかできないというのに。

女性との接し方を学べるということはもはや常識などではない。

一部の強者男性にのみ許された特権的行為だ。

それ以外の男性によって行われる女性へのアプローチはセクハラとなりMeTooによって告発され気軽に社会から排除される対象となってしまった。

 

その一方で、彼は気づいてしまう。

不可視化された者が不可視化されたままでいるのは、不可視化された者による温情でしかなく、そのような常識はいともたやすく崩壊するのだということに。

 

確かに彼は狂っていたが、社会もまた狂っていた。

アーサーは狂気の決定的な発露への引鉄を引いたにすぎない。

 

本作は、その舞台を1980年代のゴッサムシティということにしているが、社会的な状況でいえばまさに現代、あるいは数年後の未来のアメリカなどの西側先進国そのものだろう。

冷戦以後から2010年代の今に至るまで、西側諸国は進歩的価値観をとにかく重視してきた。おそらくそれは、戦争や女性差別や人種差別などが蔓延ってきた世界において、登場するのは当然だったし重視されるようになるのも間違いではなかった。

しかし、すべては行き過ぎた。

 

資本主義は過度な資本の集中をもたらし貧富の差を拡大し、階級はほぼ固定された。

男女平等を推し進めた結果、女性の眼鏡に適わない男性は排除できるようになった。

人種差別を反省すればするほど、かつて差別した側だった属性を差別してもよくなった。

社会的弱者とされる者の声に異議を唱える者は、政治的に正しくないとして社会的に抹殺されるようになった。

正義の振る舞いが求められるようになった。

 

その一方で、経済は長い不景気が続き給与は上がらないのに労働環境は悪化している。超少子高齢化による非生産人口の増加と人手不足、膨れ上がる社会保障費により重くのしかかる税金…

一生懸命汗水流して働いて納めた税金が、働かずに生活する生活保護受給者へと流れることへの不満…

生活保護制度が政治的に正しい制度であるがために、それを表立って言えない不満。

 

だから、人々は彼らを見えないものとして扱うことにした。

彼らが何か声を上げようが耳を傾けたりはしない。彼らは見えない存在なのだから。

彼らは自分の力(実際は両親などの資本力による)で何かを成し遂げられなかったのだから、彼らはかつて抑圧してきた側の人間なのだから、彼らはかつて差別してきた側の人間なのだから。

彼らに配慮などしなくとも、不正義ではない。

 

そして、社会は分断した。

不可視化された者たちは無力さに喘ぎ声を上げることを諦め、不満を溜めるだけになった。

「市民」は、より進歩的な社会でより正しくより好ましい、人間としての生活を送る。彼らなどいないかのように振る舞って。

 

 

前回のアメリカ大統領選でトランプがヒラリーを破って当選したのはポリコレ疲れが一因ではないかと盛んに分析されていたが、このような不可視化された者たちの声を吸い上げたものともいえるだろう。

現代の先進国で、普通以上の生活を送るにはあまりにも綱渡りが多すぎる。

ごく一部の選ばれし優秀層や資本家はともかく、大多数の一般人はいつ転落し不可視化されるかわからない恐怖を感じ取っていておかしくない。誰もが皆、常に正義を行える聖人ではないのだから。

 

これは決して外国特有の問題ではない。

すでに見当がついている方も多いとは思うが、「無敵の人」と呼ばれる人々のことだ。

社会的、すなわち人的、物的に失うものがなく、自身の生命にも価値を見出さなくなった人のことを指すと理解している。

 

具体的な事件名を挙げるのは避けるが、彼らは皆不可視化される存在だった。

彼らがジョーカーとならなかったのは、今がまだ最悪の時ではないからだ。

今、彼らに手を差し伸べなければ社会はジョーカーを生み出すだろう。

ジョーカーとなり得る者はどこにでもいる。

 

 

 

ほぼ全編にわたって現代社会への警鐘みたいになってしまったので、もう少し映画についての話をしよう。

この映画、見終えた直後の感想は大きく2つ。

所詮ジョーカーの勝手な身の上話で、同情を引こうとしているがおよそ許せるものではない、というのがひとつ。

不可視化されてきたジョーカーの社会への復讐劇に、どこかスカッとしてしまう自分がいた、というのがもうひとつ。

 

果たして、どちらが本当の自分の感性なのだろうか?