雑記帳

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ホワイトノイズから解消されたい

パソコンやテレビに外部スピーカーやイヤホンを接続して音声を出力すると、音を出していようがいまいが発生するビーーーーーとかジーーーーーとかいう音。

あれはホワイトノイズと呼ばれるらしい。本当は原因や音の種類によって別な色のついた名前があるらしいが、うちのは恐らくホワイトノイズだった。

 

今回は、パソコンを買い替えたことによって偶然にも対策待ったなしの状態になった我が家におけるホワイトノイズ対策をご紹介する。

 

 

結論

グランドループアイソレーターを導入しよう。

 

私はAmazonでみつけた1000円くらいの製品を買いました。

使い方は簡単。

3.5mmの普通のオーディオケーブルを使って、ホワイトノイズの原因と思しき機器、今回はテレビとスピーカー用のアンプとの間に接続するだけ。

するとあら不思議、あれだけ耳障りだったホワイトノイズはたちまち消え去ったのでした。

 

そもそもなぜホワイトノイズが発生するのかというと、グランドループという状況になっていることが原因らしい。

グランドループとは、オーディオ機器を接続するときに電気のプラス・マイナス、オーディオ信号のプラス・マイナスがループ状の配線になってしまっている状態のこと。

具体的にいうと、テレビと外部スピーカーを接続していて、その両方を同じ電源に接続している場合がこれにあたる。それぞれを線で結ぶと輪になるよね。ループしているというわけ。

 

じゃあ電源をそれぞれ分ければいいのでは?とも思ったが、多数の機器によりもはや電源周りの配線は限界であり、これ以上の措置は不可能。

そもそも家庭では取得できるコンセントの数や場所に限りがあるのだから、グランドループになることはやむを得ない状況になることは、我が家に限らず多々あるのではないか。

特に、実況や配信をするゲーム実況者やストリーマーの場合、パソコン、モニタ、ゲーム機、アンプ、オーディオインターフェースなど電源を要する複数の機材に囲まれる関係上、このグランドループに起因するホワイトノイズ問題は、実はかなり高い頻度で発生しているのではなかろうか。

 

このノイズ、スピーカーのみならずマイクやヘッドセットにも乗るらしいので、通話する際にノイズがひどいと指摘されるときにはこのグランドループを疑ってみてはいかがだろうか。

 

ホワイトノイズ対策のグランドループアイソレーターの紹介はここまで。

以下は我が家の当時の問題状況を、まだ見ぬどこかの誰かのために記載しておく。

 

  1. 接続機器
    ・デスクトップパソコン
    ・テレビ(HISENCE 43E6800)
    ・オーディオアンプ
    ・switch
    PS4

  2. 接続状況
    パソコンとテレビ、switch、PS4HDMI接続
    パソコンの背部ジャックから3.5mmオーディオケーブルでアンプへ音声出力
    テレビの背部ジャックから3.5mmオーディオケーブルでアンプAUXへ音声出力
    パソコンからUSBケーブルでマイク、全面ポートから3.5㎜オーディオケーブルでイヤホンに接続

  3. 問題状況
    テレビの電源を入れるとスピーカーからホワイトノイズが出現。
    上記の接続状況を変更し、テレビの音声をパソコンに出力し、パソコンでライン入力として処理し、パソコンからの音声として出力するとスピーカーからのホワイトノイズの音量がかなり小さくなる、
    しかし、イヤホン接続すると極めて大きく不快なホワイトノイズが常に発生するようになる。

  4. 対策
    USB接続のオーディオインターフェースを介してイヤホン出力する
    →効果なし

    テレビとアンプの接続をやめる
    →テレビ、スピーカーともにホワイトノイズは出ない
     →原因はテレビとアンプまたはパソコンを接続することとほぼ特定

    さらに、レビューサイトにて、HISENCEのような比較的安い価格帯のテレビの場合、グランドループ対策を講じていないことがあり、本製品もその例に漏れないとのレビューがあった。そこでグランドループアイソレーターの導入をすることとなった。

 

以上です。何かご質問とかあれば。

新型コロナウィルス(COVID-19)対応から考える ※2月27日16:40更新

中国は武漢の医師らによる告発から始まった新型コロナウィルスフィーバーから、早くも1ヶ月になろうとしている。パニックは収まるどころか日に日に混沌の様相を呈している。

私は現在縁あってとある医療機関に勤務しているため、否応なく対応に迫られている訳であり、あれやこれやと考えずにはいられないのだが、どう考えても世間は変な方向に騒ぎすぎな印象を受けている。

ということで、行政法の勉強の一環として少し考えたことを書いてみる。

 
1.感染者、疑似症患者の強制入院や隔離についての言説

 日本政府は、中国政府が武漢市を含む湖北省からの移動を制限する措置を講じたことを受けて、湖北省に在留している日本人を帰国させるためチャーター機を手配し、これまで計5便を受け入れている。

 このチャーター機での帰国時に話題となったのは、帰国者を全員隔離しないのか、という言説である。第1便の帰国者のうち2名が検査やホテルへの任意宿泊を拒否し、帰宅したというニュースが大きな話題となった。なお、その後その2名も検査等を希望したようである。


 ここで疑問が生まれる。そもそも全員隔離や強制入院などの措置は可能なのであろうか?ネットやTVのワイドショーではあたかも当然できるかのような言説が飛び交っていたが、ここ日本は腐っても法治国家基本的人権の尊重を基本理念に据えた憲法を有する国である。法律にないことはできない。ということで、法律を探してみることにしよう。

 

2.感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律

 日本における対感染症の法律は上記の法律、通称「感染症法」が基本となる。

感染症法によれば、特に対策を講ずる必要性の高い感染症をその性質から分類し、その予防や感染の拡大の阻止のため、行政が患者や疑似症患者に対してとり得る措置が規定されている。今回は「強制隔離」のような措置がとれるのかにスポットをあてることにする。

 
感染症の規定を読むと、関係ありそうな箇所は以下の通りである。

 
①指定感染症の定義、政令による指定(法6条8項)

②指定感染症への感染症法の規定の準用(法7条1項)

③疑似症患者と無症状病原体保有者への適用(法8条)

④入院(法19条、20条)

 


それぞれ内容を簡単にみていこう。

①は今回の新型コロナウィルスも指定された、感染症法に定める「指定感染症」とはなんなのか、それはどのように定めるのかが定められている。

“この法律において「指定感染症」とは、既に知られている感染性の疾病であって、第三章から第七章までの規定の全部又は一部を準用しなければ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあるものとして政令で定めるものをいう。”(カッコ書き省略)


簡単にいえば、この法律では感染症を第1類から5類まで分類して対応を定めているのだけれども、この分類に当てはまらないもののうち、特に緊急に対策が必要になった感染症は、政令で定めることで感染症法の適用とすることができる、ということ。

 
②は、指定感染症感染症法の規定の適用を受けるよ、ということ。


③は、疑似症患者と無症状病原体保有者についての規定。

どちらも聞き慣れない言葉だが、以下の通り定義されている。

“この法律において「疑似症患者」とは、感染症の疑似症を呈している者をいう。”

つまりは、症状的にはその感染症らしいが、まだ確定診断できていない人のこと。

 
“この法律において「無症状病原体保有者」とは、感染症の病原体を保有している者であって当該感染症の症状を呈していないものをいう。”

つまりは、検査結果によれば感染しているようだが、身体に症状が出ていない人のこと。

 
④は今回のキモ、入院に関する規定である。

19条は1から4項までが主な部分でしょう。かみ砕くと以下の通り。

1項と2項は、行政が患者に対して入院を「勧告」することができることを定めている。この勧告に当たっては十分な説明を行うことが義務付けられている。

3項と4項は、行政が患者を強制的に入院させることができることを定めている。入院期間は原則として最大3日間。

20条は19条3項でなされた強制入院の期間を延長することができることを定めている。

延長は10日以内の期間を定めて、最大でも10日単位で延長するか否かを判断するものとされている。

 


3.今回のケースでの検討

ようやく今回の事態に関連する感染症法の規定の解説が終わりましたね。ここまで読まれた皆さんもおつかれさまでした。

それでは本題。果たして日本国政府チャーター機での帰国者を強制的に隔離することは可能だったのだろうか?検証してみましょう。

 


まず武漢市が封鎖されたのが2019年1月23日。

その後、同28日、安倍総理大臣が新型コロナウィルスを指定感染症に指定する方針を決めると国会で答弁し、その日のうちに政令を公布。

政令は「新型コロナウイルスを指定感染症として定める等の政令」という名称となった。

この政令の施行日は2月7日と定められた。つまり、この政令の効力は2月7日から発動する。

ー2月27日追記ー

その後、1月31日に開催された新型コロナウイルス感染症対策本部(第3回)において、政令の施行日が2月1日に前倒しされることが安倍首相から発表され、翌2月1日に持ち回り閣議によって施行された。

したがって、2月1日午前0時から政令は効力が生じ、新型コロナウィルスは感染症法の指定感染症に分類された。

 

以上の通り、施行日についての事実関係が異なっていたが、下記の内容については影響がないためそのままにさせていただく。


話を時系列に戻そう。

1月29日、武漢からのチャーター機第1便が到着。ほとんどの帰国者が政府の用意した宿泊施設に任意で宿泊するも、2名が検査を受けず帰宅したことが報じられる。

同30日、第2便が到着。

同31日、第3便が到着。

2月7日、第4便が到着。

同17日、第5便が到着。

 


ここまで読んでいただければ、勘のいい読者の方々はおわかりいただけるだろう。

強制的な隔離、すなわち、感染症法に基づく強制入院は、2月7日に到着した第4便以降の帰国者に対してしかすることができない。


既述の通り、「指定感染症」への分類は「政令」によってなされるが、この指定の「政令」の効果が発揮されるのは2月7日からと定められた。

そのため、2月7日までは新型コロナウィルスは指定感染症ではないため、感染症法の対象とはならないのだ。感染症法の対象外である以上、法律に基づく措置を講ずることは当然できない。これは「法律による行政の原理」と呼ばれる大原則である。


 したがって、チャーター機での帰国者を強制的に全員隔離することなど、そもそも法律的に不可能だったのだ。

むしろ、なんの強制力もないただの「お願い」を素直に受け入れ、政府機関の寮やホテル三日月に軟禁されるという選択をしてくれた帰国者のみなさんを称えるべきであろう。


 もっとも、これで政府をはじめとした行政機関に落ち度がなかったかといえばそれは別問題。手落ちはたくさんあっただろう。批判すべき部分は批判すべきだ。

しかし、不必要に争点を拡大しては真の問題の解決が遅れるおそれがあることにも留意すべきだと私は考える。

  

4.補論 感染症法はなぜ強制力に慎重なのか

最後に一点、気になった方もいると思うので、なぜ感染症がこんなにも強制入院や隔離などの強制力の行使に慎重なのかについて少し書いておこう。


ハンセン病という病気がある。

らい菌によって発症し、末梢神経と皮膚組織を侵し、外貌を著しく害する。感染性はあるがその感染性は極めて弱く、通常の生活を送る程度で感染することはまずなく、また完治する病気である。

 
その歴史はきわめて古く、日本では日本書紀にも記載がある。戦国時代の大谷吉継はらい病患者だったといわれている。

近代以降に目を移すと、らい予防法、優生保護法により、らい病患者の隔離施設への強制収容、さらには断種、強制不妊手術、強制的な人工妊娠中絶までもが国の施策として行われてきた。

らい予防法が廃止されたのは1996年のこと。たった24年前のことである。

その後、らい予防法と優生保護法違憲であったとして、国家賠償請求訴訟が提起され、国が敗訴し基金の設立や賠償金の支払いを行なっているが、患者らが被った被害や差別や偏見は、お金だけで解決できるものでは決してない。

 

ハンセン病はその外貌への影響から、極めて低い伝染性に目を瞑られ、感染症であることを理由として隔離政策が行われた。

今の感染症法はこの反省の上に成り立っている。その精神は、感染症法の前文によく表れている。全文引用しよう。少々長いが、いい意味で法律らしくない、とても熱い文章なので是非とも読んでほしい。

 
“人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである。

医学医療の進歩や衛生水準の著しい向上により、多くの感染症が克服されてきたが、新たな感染症の出現や既知の感染症の再興により、また、国際交流の進展等に伴い、感染症は、新たな形で、今なお人類に脅威を与えている。

 

一方、我が国においては、過去にハンセン病後天性免疫不全症候群等の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。

 

このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている。

ここに、このような視点に立って、これまでの感染症の予防に関する施策を抜本的に見直し、感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する総合的な施策の推進を図るため、この法律を制定する。“


まず、感染症法は比喩抜きに人類の脅威である感染症を、人類として克服するのだという強い意志を示している。

その一方で、病を恐れるあまり、非科学的、無根拠、非合理的に、国家が差別を主導し肯定していたという厳然たる事実を重く受け止め、感染症の防止という極めて大きな目的の前であっても、基本的人権を尊重しなければならないことを宣言しているのである。

 

私たちはいつだって自分は当事者にはならないと思い込んでいる。

武漢からの帰国者も、クルーズ船の乗客も、タクシーの運転手も、あなただったかもしれない。

心ない言葉を投げつけられ、いわれのない偏見を押し付けられたのは、あなただったかもしれない。


私たちは、常に冷静であらねばならないと思う。

 


以上

今さら映画レビュー「ジョーカー」

 世間は11月15日発売のポケモン剣盾で賑わっている。

しかし、ここはあえて10月4日に公開され大きな話題を呼んだ映画、「ジョーカー」についてレビューしようと思う。

なお、先日の「天気の子」レビューはガチで長々と書きすぎたので、今回こそ手短にまとめたいと思う。

 

 

本作を見に行った理由だが、アメリカで公開すべきでないとの声がマジメに上がるくらい社会情勢を反映しているらしいが、マジだった、という簡素なレビューを目にしたからだ。

リーマンショック以後、サブプライムローン崩壊、不法移民問題MeToo、ポリティカルコレクトネス、そしてトランプ大統領

日本だってパンドラボックスによって東都、北都、西都に分かれて混迷を極めていた時期がつい2年前まであったくらいなので、世界が混迷を極めていなかったときなど存在しないというべきなのだが、それでもやはり偉そうな肩書の学者や評論家たちがこぞって「混迷している」と評価しているこのご時世なのだからやっぱめっちゃ混迷しているんだと思うのだが、その混迷にTNTを放り投げるような作品だと期待して、公開から数日後には夜勤明けの眠い目を擦って劇場に足を運んでいた。

 

結果、期待以上のものが見られた。

以下、感想である。

 

 

本作の凄まじい点は、もはや評価され尽くしているとは思うが、主演・ホアキン・フェニックスの怪演である。

ほぼ全編出ずっぱり。出ていないシーンを探す方が難しいレベル。

劇場から出たあなたはずっとジョーカーの笑い声が脳内でリフレインし、街中で電車内でそして自宅で、誰かの何気ないただの笑い声に鳥肌を立てずにはいられなくなるだろう。

少なくとも私は劇場を出てから家に着くまで、ただの若者の笑い声が聞こえただけでそちらに視線を注がずにはいられなかったし、全身に嫌な緊張感が走っていた。

 

私が積極的に評価したいのはもう一点。

本作は主人公のコメディアンを目指す売れないピエロ・アーサーが、 悪の化身・ジョーカーとなるまでを描いた作品である。

題材はよくある人気ヴィラン誕生譚にすぎないのだが、この作品の評価のポイントはこの主人公・アーサーの属性にある。

アーサーは、精神疾患を患い、公的機関からの援助なしには生きられないわずかな収入しかなく、年老いて心身を病んだ母親を自宅で介護している、決してモテることのない白人の独身中年男性だ。

 

端的に言おう。アーサーは、現代社会において不可視化された存在の象徴だ。

ポリティカルコレクトネス、政治的正しさが重んじられ、男女平等、人種差別の排除、LGBTQの人権尊重が推し進められた結果、今日の社会では存在しているのに関心を向けられない、顧みられることがない、なかったことにされる存在が出現した。

ここで重要なのは、決して排除されているという訳ではないのだ。存在しないものとして扱われる、無視に近い状態だ。

 

上記のアーサーのような境遇にある者は、世間から存在しないものとして扱われ、不可視化され、社会のレールの上に乗ることはできず、レースに参加することは極めて困難だ。

身分の安定した定職に就くことも、パートナーを獲得することもできない。この先一生、ホワイトカラーとして上層階の美しいオフィスで働くことはできないし、苦楽を共にするようなパートナーと添い遂げることもできない。ただ、最低限の公的扶助で生きているだけの存在となる。

 

だがしかし、このような状況は誰かが積極的に彼らを差別するから発生するのではない。

なぜなら、現代において差別は悪しきこと、政治的に正しくないこととされているからだ。

彼らを選ばないのは彼らがそのようだからであり、そのようになってしまった彼らを積極的に選び、救う理由は人々には、ない。

だからといって排除することは正しくない行いだから許されない。

だから、見て、見ない。

人々は彼らを不可視化した。

 

私たちは彼らを不可視化している。

 

 

本作では社会から不可視化されたアーサーの生活が描かれるが、そこに救いはない。

唯一の娯楽はお気に入りの人気司会者が出演するトーク番組をテレビで見ることだけ。

仕事には失敗しクビになるし、公的扶助は打ち切られるし、誰かとコミュニケーションをとろうとしても独身で身なりの悪い男性という時点で強く拒絶される。

 

そんな境遇の彼だからこそ、偶然エレベーターに乗り合わせ、自分のジョークにリアクションをくれたシングルマザーの女性に執着するのだが、女性との接し方などわからない彼の行動と妄想は、観客に強い嫌悪感と恐怖を与えただろう。

女性とのまともな接し方を学ぶ機会すら与えられずに歳をとってしまった彼にはそうすることしかできないというのに。

女性との接し方を学べるということはもはや常識などではない。

一部の強者男性にのみ許された特権的行為だ。

それ以外の男性によって行われる女性へのアプローチはセクハラとなりMeTooによって告発され気軽に社会から排除される対象となってしまった。

 

その一方で、彼は気づいてしまう。

不可視化された者が不可視化されたままでいるのは、不可視化された者による温情でしかなく、そのような常識はいともたやすく崩壊するのだということに。

 

確かに彼は狂っていたが、社会もまた狂っていた。

アーサーは狂気の決定的な発露への引鉄を引いたにすぎない。

 

本作は、その舞台を1980年代のゴッサムシティということにしているが、社会的な状況でいえばまさに現代、あるいは数年後の未来のアメリカなどの西側先進国そのものだろう。

冷戦以後から2010年代の今に至るまで、西側諸国は進歩的価値観をとにかく重視してきた。おそらくそれは、戦争や女性差別や人種差別などが蔓延ってきた世界において、登場するのは当然だったし重視されるようになるのも間違いではなかった。

しかし、すべては行き過ぎた。

 

資本主義は過度な資本の集中をもたらし貧富の差を拡大し、階級はほぼ固定された。

男女平等を推し進めた結果、女性の眼鏡に適わない男性は排除できるようになった。

人種差別を反省すればするほど、かつて差別した側だった属性を差別してもよくなった。

社会的弱者とされる者の声に異議を唱える者は、政治的に正しくないとして社会的に抹殺されるようになった。

正義の振る舞いが求められるようになった。

 

その一方で、経済は長い不景気が続き給与は上がらないのに労働環境は悪化している。超少子高齢化による非生産人口の増加と人手不足、膨れ上がる社会保障費により重くのしかかる税金…

一生懸命汗水流して働いて納めた税金が、働かずに生活する生活保護受給者へと流れることへの不満…

生活保護制度が政治的に正しい制度であるがために、それを表立って言えない不満。

 

だから、人々は彼らを見えないものとして扱うことにした。

彼らが何か声を上げようが耳を傾けたりはしない。彼らは見えない存在なのだから。

彼らは自分の力(実際は両親などの資本力による)で何かを成し遂げられなかったのだから、彼らはかつて抑圧してきた側の人間なのだから、彼らはかつて差別してきた側の人間なのだから。

彼らに配慮などしなくとも、不正義ではない。

 

そして、社会は分断した。

不可視化された者たちは無力さに喘ぎ声を上げることを諦め、不満を溜めるだけになった。

「市民」は、より進歩的な社会でより正しくより好ましい、人間としての生活を送る。彼らなどいないかのように振る舞って。

 

 

前回のアメリカ大統領選でトランプがヒラリーを破って当選したのはポリコレ疲れが一因ではないかと盛んに分析されていたが、このような不可視化された者たちの声を吸い上げたものともいえるだろう。

現代の先進国で、普通以上の生活を送るにはあまりにも綱渡りが多すぎる。

ごく一部の選ばれし優秀層や資本家はともかく、大多数の一般人はいつ転落し不可視化されるかわからない恐怖を感じ取っていておかしくない。誰もが皆、常に正義を行える聖人ではないのだから。

 

これは決して外国特有の問題ではない。

すでに見当がついている方も多いとは思うが、「無敵の人」と呼ばれる人々のことだ。

社会的、すなわち人的、物的に失うものがなく、自身の生命にも価値を見出さなくなった人のことを指すと理解している。

 

具体的な事件名を挙げるのは避けるが、彼らは皆不可視化される存在だった。

彼らがジョーカーとならなかったのは、今がまだ最悪の時ではないからだ。

今、彼らに手を差し伸べなければ社会はジョーカーを生み出すだろう。

ジョーカーとなり得る者はどこにでもいる。

 

 

 

ほぼ全編にわたって現代社会への警鐘みたいになってしまったので、もう少し映画についての話をしよう。

この映画、見終えた直後の感想は大きく2つ。

所詮ジョーカーの勝手な身の上話で、同情を引こうとしているがおよそ許せるものではない、というのがひとつ。

不可視化されてきたジョーカーの社会への復讐劇に、どこかスカッとしてしまう自分がいた、というのがもうひとつ。

 

果たして、どちらが本当の自分の感性なのだろうか?

 

今さら映画レビュー「天気の子」

 いつだったか、私はTwitterで「天気の子」のレビューを書くと息巻いていたが、月日の流れは残酷なもので早くも数ヶ月が過ぎ去った。レビューどころかこのブログの更新さえしていない。というか、長い夏が終わりあってないような秋を迎えもはや冬になろうとしている。時の流れが早すぎる。


 さて、いささか遅れてしまったが、何事も有言不実行、あったことをなかったことにしてはならないと思うので、スキマ時間にリフレッシュがてら書いていこうと思う。

もっとも、公開から数ヶ月が過ぎてレビューもネタバレも出尽くしている感があるので、その辺にはほぼ配慮せず、かつ短めに仕上げていくつもりだ。

 


 世間的な「天気の子」の評価は既に固まったものとなったといえよう。「君の名は」で記録的大ヒットとなった新海誠監督の意欲作であって、前作ほどではないものの大ヒットであり、エンタメ的には大成功といってよい。もっとも、結末には賛否両論ありえるところ。こんなところだろうか。

私が劇場に足を運んだ頃にはこのような評価でおおよそのまとまりを見せていたと記憶しているが、それでもなぜ「天気の子」という作品についてレビューを書きたいかと思ったかといえば、それは大きく2点ある。

ひとつは、新海誠監督が選び描いたテーマについて語りたいと思ったから。

もうひとつは、00年台を生きてきたアニメオタクとして感動したから、である。

それでは書いていく。

 

第一点、テーマについて。

 本作は主人公の帆高とヒロインの陽菜との青春ラブ・ストーリーを軸に据えたファンタジーだったが、そのテーマは非常に明確だった。それは「調和」である。

本当は、社会規範と個の利益うんぬんと言っていたのだがどうもピンとこなくてベッドの中で思案していたところ、このワードがうかんできたのであるが、実は「天気の子」公式パンフレットの監督インタビューでモロにこの「調和」というワードが登場する。ほぼ冒頭の箇所で。答え合わせとみるべきか、己の語彙の少なさを恨むべきか…。

 


この作品、すべての主要な登場人物はみな、社会との調和の程度にグラデーションがある。調和の程度というのはどういうことかというと、社会のルールや秩序、倫理観、常識、そして世間の空気感に対して、どのようなスタンスをとっているか、ということである。

登場人物で説明すれば、積極的に理由は説明されなかったが、田舎の空気感や世間の常識が嫌になって東京に飛び出してきた家出少年の主人公・帆高は、明らかに社会との調和の程度や理解は低い。調和を乱す側の存在だ。

 

これに対し、リーゼントがトレードマークの警察官、若井刑事は帆高の対極に位置するキャラクターだろう。社会秩序と調和を遵守し、積極的に是正することを生業とする警察官という職業に身を置き、多少強引な手法を用いてでもその目的を達しようという姿は、社会の調和を重んじているという価値観の表れだといえる。

 


この2人は極端な例だが、ほぼ全員が全員、「調和」へのスタンスについて少しずつ差異を設けて描かれているのは、確実に意図的なものだろう。

ヒロインの陽菜ちゃんは、小学生の弟を「調和」から外れさせたくないがために、自らは法律に反する行為に手を出し、さらに反倫理的な世界にまで巻き込まれようとしている。調和のとれた世界に居たいが故に、調和を乱す行為に手を出さざるを得ない者として描かれている。

 

ここで重要なのは、法や建前がいう「調和」と現実の人々が肌感覚として感じている「調和」にはズレがあるということだ。

法律やある制度の趣旨・建前からすれば、ある措置をすることは当然とされている、つまりそれこそが「調和」なのだが、現実にその措置を受けると社会の空気感として疎外される、「調和」を乱すこととなることがある。

たとえばそれは生活保護だったり、海外からの難民申請だったり、児童相談所児童養護施設による保護だったりする。

 

この社会は「普通ではない」彼らに対して、「調和」乱す者だとして冷たい目線を向けている。

 


ここでは省くこととするが、編集長の須賀さんや、ちょっとエッチな女子大生夏美もそれぞれ「調和」へのスタンスやエピソードが描かれているので、未見の方は頭の片隅に置きつつ見てみてほしいし、既に見た方はぜひとも思い返してみて欲しい。

 


ここまで露骨にグラデーションをつけてまで「調和」を描いてきたこの「天気の子」という作品が、このテーマにどうやって決着をつけるのか、言い換えればオチをつけるのか固唾を飲んで見守っていた訳だが、思い切ったなというのが素直な感想だった。

「賛否両論になるだろう」という監督の言はおそらく、今の社会の息苦しさを前提にしたもので、きっとその認識は正しい。

 

ネタバレになるが、帆高たちは3人での生活を守るため、法を犯しながら逃避行することを決断する。しかし、陽菜は水没していくどころか真夏に雪が降る異常な東京を目の当たりにし、警察に追われる中で子供3人で当てのない逃避行をすることの困難さを肌で感じたことで、世界の調和のために、自らの存在を捧げる決断をする。帆高と凪との3人での生活という、選びたかった自分の理想を形にしたような一晩を思い出に。

翌朝、部屋に陽菜の姿はなく、長い間厚い雲に覆われていた空には一点の曇りもない夏空がただ広がっていた。


ここまでなら尊い自己犠牲の悲恋である。

最大多数の最大幸福こそ、現代社会において最も理解を得やすい理念だろう。


しかし、「天気の子」はこれを徹底的に否定する。社会の調和なんてクソくらえ。俺たちの幸せの邪魔をするな。そのためなら世界なんてどうなったって構わない。

帆高はルールというルールを破り、陽菜を世界から奪い返そうとする。

帆高が鉄道のレール上をひたすら走るのも、拳銃を構えるのも、「調和」を破る象徴的な行為だ。

 

社会との調和に背を向けてでも選んでいい選択肢だってあるのではないか?その「調和」はそれほどまでに重要なのか?それは個人の、かけがえのない個人の意思を命を犠牲にすることを肯定するほどに価値あるものなのか?


命は極端であるとしても、この問いかけは現代において極めて本質的だと私は感じた。

SNSでの炎上といえば、かつてはバカッターと揶揄されるような違法行為に向けて発生するものだった。

しかし現在では、なんのことはない内容の表現に対して「正義の言論」が振りかざされ、盛んに燃えている。「正義」を振りかざす彼らはそれが社会の「調和」のためであると信じて疑わないし、ポリティカルコレクトネスなど、進歩的価値観こそ目指すべき思想・表現であり、これに反すると思われる表現は社会の調和を乱す不正義なのだから、囲んで叩き潰して問題ない。

その対象はフィクションであっても同じことで、架空の物語であっても「正しく」あるべきだ。

そんなエスカレートする空気感への警鐘のように思えるのだ。

「正義」や「調和」といった概念は絶対ではないし、時には不正義をあえて選択する物語があったってよいに決まっている。

それが物語の良さであり、だからこそ観た人の心を動かすのだ。


 本作は、帆高と陽菜が選び取ったその後の世界をも描いているが、そこで描かれているのは水没して滅亡した東京ではなく、降り止まない雨に順応した東京だった。

つまり、世界は雨が降り止まないという新たな理に順応し「調和」している。

やはり、社会の調和などというものはこれっぽっちも確固たるものなどではなくて、その場その時代その状況や空気感で変わっていくものにすぎないことを肝に銘じるべきだろう。

 


以上が第一点、本作のテーマ「調和」についての感想である。

思ったより長くなってしまった…。

 


さて、それでは第二点の方に移ろう。

この作品、公開直後に

「オレはこの映画の原作エロゲをプレイしたことがある」

「これはすべての個別ルートをクリアすることで初めて到達できるトゥルーエンドの映像化」

「PC版発売から数年後に発売された全年齢版を基にした映像化作品」

などという幻影に囚われたレビューが多数投稿され、話題となっていた。

 


そんな訳あるかい!wと小バカにして読んでいたのだが、「天気の子」を見て劇場を出るや、確かに私はこの原作ゲームをプレイしたことがあり、そしてこれは全ての個別ルート、バッドエンドを回収した後でのみ到達できるトゥルーエンドで、当時も感動のあまり涙でディスプレイを見られなくなったという記憶が捏造された。

 


それほどまでに、00年代にアニメ、マンガ、ラノベ、ゲーム、ネットといったサブカル 文化にひたひたに浸って育ってきた人間にブッ刺さる構成だったのだ。

いわゆるエロゲをはじめとするアドベンチャー・ノベルゲームというのは、プレイヤーは 主人公の視点からシナリオを追っていき、時折あらわれる選択肢を選ぶことによってストーリーが分岐し、ヒロインやストーリーラインそのものが大きく変化して、異なる結末を迎えるマルチエンディングのものが主流だ。

そして、その中でも大作、名作とされた作品には、登場キャラクターの個別ルートを全て攻略した後でなければメインヒロインとの大団円的なエンディングを見ることができないものが存在した。

 


そして、00年代のオタク界隈はいわゆる「ポストエヴァ」の時代であり、セカイ系が最も 発展した時代であった。

セカイ系という言葉には明確な定義はないとされているが、ここではひとまず「私と君(とそのごく身近)の関係性が、そのまま世界の命運を握るような事態に影響を与える物語」としておこう。

もはやありふれた形式に思われるかもしれないが、冷静に考えてみれば、世界を変化させるには、普通「私と君」だけではできっこないのであり、私たちという個の存在と世界との 間には必ず「社会」という中間項が存在する。

この中間項をすっ飛ばした点に多くの批判がなされ、そして再評価された。

 


話を戻そう。

つまるところ私が言いたいのは、「天気の子」は「00年代セカイ系全盛期のエロゲ」的エンタメとしてのおもしろさに満ちた作品なのだ。

 


作品を見た人ならわかると思うが、ラストの展開は陽菜を救い出そうとする帆高に対して数多くの困難が襲いかかる。それを帆高と陽菜が関わることで影響を与えてきた人たちの助けで跳ね除け、大団円を迎えるのである。

この展開が「ご都合主義」と批判されるのはわかる。

しかし、違うのだ。このルートに入るまでに、プレイヤーは帆高として全てのキャラクターと多くの時間を過ごし、彼らの内面に深く立ち入り、彼らのひとつの結末を共に迎えてきている。

だからこそ、彼ら全員と過不足ないコミュニケーションと理解を深め、そして物理的な困難を打破できる下準備をすることができているのだ。

これはご都合主義ではなく、必然なのだ。

夏美ちゃんと原付で爆走できるのも、凪センパイが脱出できるのも、須賀編集長が最後の最後に決断を下せるのも、すべて、個別ルートで彼らとの大切な時間を共にし、彼らという人間を知ってきたからなのである。

 


各登場人物の個別シナリオを妄想し、あったであろう情景を思い描くことがこれほどまでに容易い作品は他に見たことがない。

凪センパイルートでは大人びた凪が、姉・陽菜や早くに失った両親への想いを吐露し涙するシーンなどは涙なしには見られなかった。

須賀編集長ルートは日常のコミカルさと、須賀の妻と娘への想いのシーンのギャップにやられた。

夏美ちゃんルートはすごくえっちだった。


こんな感じでいくらでも妄想できる。

ていうかゲーム化してくれ。

 

ちなみに、新海誠監督はこの作品をセカイ系と捉えたことはないという。

確かに言われてみればその通りで、社会をすっ飛ばして主人公らと世界を直結するのがセカイ系なのだとすれば、本作は「社会」は明確に主人公らの敵として描かれているし、世界が変革したあとの社会のあり方をも描写しているのだから、セカイ系の定義には当てはまらなそうにもみえる。

そうはいうものの、根本的な物語の構造は典型的なセカイ系としかいえないし…

いろいろ考えたが、この「天気の子」という作品はセカイ系のその一歩先に位置するものなのだとするとすわりがよい気がする。


帆高はあの日、陽菜を救うために「社会」を敵に回す決断をし、「調和」を乱し、世界を変革した。

その結果、帆高は陽菜を世界(今作では東京)を破壊する共犯者にしてしまった。

だからこそ、保護観察処分の間、帆高は陽菜に連絡を取ることができなかった。

自分たちのために世界を壊すなんていう大きすぎる罪を背負わせておいて、なんと声を掛けていいのかわからなかったからだ。

 

しかし、帆高のそんな考えを大人たちは否定する。

晴れ女最後の依頼者である立花さんからは、社会が変わることは当たり前であり、むしろ昔の姿に戻っただけかもしれない、正常かどうかなんて誰が決めるのか、と。

須賀編集長からは自分の責任だなどとうぬぼれるな、こんなもの代償ではない、世界なんてもともと狂ってる、と。

 

この言葉に帆高も揺らぐ。陽菜に君のせいじゃないと言うべきかと。

 

しかし、ラスト。

雨の中、水に沈んだ世界を前に、空に祈る陽菜の姿と降り注ぐ光を見た帆高は、この世界を変えたのは自分であり、そのことを背負って生きていくことを選び取る。

なぜなら、陽菜もまた帆高と同じく自分こそが世界を変えてしまったのだと認め、そのことを背負いながら生きていこうとしているとわかったからだ。

だから、帆高は陽菜に「大丈夫」と声をかけたのだ。

2人とも同じ方を向いている。同じ思いを抱いている。

客観的に、物質的に、過去を、今を、未来を保証してくれるものは存在しない。

だからこそ、この世界で唯一、彼女と共に選択をし、そして選んだという自覚のある者として、お互いを認めあえる存在なのだという現れとして、「大丈夫」だと口にしたのだ。

「君を大丈夫にしたいんじゃない。君にとっての大丈夫になりたい。」という歌詞は、こういう意味なのだろう。

結局、2人が互いに大丈夫だと口にしたところで何も保証なんかしてくれない。それでも2人ならきっと大丈夫だという希望を最後に見せつける。

 

「あの夏の日、あの空の上で、私たちは世界の形を決定的に変えてしまった」

という、この映画のコピーの後に続く2人の世界は、きっと「大丈夫」なのだ。

 

 

以上をもって、今更「天気の子」レビューを終える。

これに10代で出会えた若者たちは本当に幸せだと思う。うらやましい。

最高のエンターテインメントの1つだと断言できる。

斜に構えた映画評論家たちがあーだこーだ抜かしているが瑣末な問題に過ぎない。

是非とも見て欲しい1本だ。

 

痴漢vs安全ピン

第1 序文

 ここ数日(記述しているのは2019/05/24)、Twitterを中心に「対痴漢の防衛策として安全ピンをぶっ刺す」ことの是非が盛り上がっているようである。

正直、筆者が上京するかなり前から聞いたことのあるネタなのに、なぜこのタイミングで盛り上がっているのか意味不明であったが、どうやらマンガつきのツイートが発端であり、最近の「ツイフェミ」の盛り上がりと相まって燃え上がったようだ。

抜粋ではあるが、その様子は以下の通りである。

 1.肯定派

 

 

 

 

 

2.否定派 

他方で、これに反対する立場の意見は以下の通りである。

 

 

 

 

3.議論のまとめ  

上記の議論を軽く追ってみると、

・肯定派

①安全ピンで刺されるのは痴漢だけなのであって、痴漢をすることのない一般男性には全く無関係であり、そのような男性からの批判はあたらない

②安全ピンで刺したところで生じるケガの程度は軽微であって、自己防衛手段として相当である

③声を上げたところで蔑視される以上、痴漢に対する私的制裁として安全ピンは相当である

④①を前提として、反対するのは痴漢か痴漢予備軍、痴漢肯定者に違いなく、そのような者の批判に耳を傾ける必要はない

 

・否定派

①日本は法治国家であり、原則として私的制裁は禁じられている。安全ピンを使用し加害者へケガを負わせることは私的制裁にほかならない。

②①の例外としての正当防衛としても疑問が残る。過剰防衛の問題も生じる。

③満員電車を考慮すると、冤罪の危険を拭えない。加害者以外への被害が生じる可能性もある。

④痴漢被害者として取りうる他の代替手段が存在する。安易に勧めるべきではない。

 

ということになろうか。

本稿では、このような議論を受けて、正当防衛についての問題を取り扱う。

正当防衛は刑法上の重要論点であり、裁判例も多数存在する。法律に詳しくない人々にも馴染み深い用語であると思われるが、果たして現実にはどのように作用するのか、検討を行いたい。

 

第2.正当防衛の成立要件

正当防衛は刑法36条1項に規定されている。

急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為は、罰しない。

これを要素に分解してみてみると、

①「急迫」

②「不正の侵害」

③自己または他人の権利を「防衛するため」

④「やむを得ずにした」

となる。

それぞれの意味を確認しよう。

 

①「急迫」とは、法益の侵害が現に存在しているか、または間近に差し迫っていることをいうと解釈されている。「急迫性」の要件とも呼ばれる。

 「法益」は、法律によって保護される利益をいうが、人の生命、身体、住居、財産等の憲法に明記された権利にとどまらず、比較的広く権利や利益が含まれるだろう。痴漢との関係に限っていえば、「性的自由」も法益に当たる、つまり、「意思に反して性的行為(=痴漢)をされない権利」は正当防衛の対象となる法益だということに争いはない。

 「現に存在または間近に差し迫っている」とは、法益侵害行為との時間的場所的な近さが近いことをいう。

 

②「不正の侵害」とは、法益に対する実害を生じさせるおそれのある違法な行為をいう。

(正当防衛が刑法にあえて規定されているのは、警察などの国家機関による救済を待っていたのでは法益が侵害されてしまう緊急事態において例外的に正当防衛という自力救済手段を認めておくことで、その法益侵害行為によって害される法益を守るためである。そうすると、正当防衛を成立させるべきは、「違法な行為」に対してのみで十分だということになる。*1

 

③「防衛するため」とは、急迫不正の侵害が加えられるということを認識しつつ、それを回避しようとする心理状態をいう。

「防衛の意思」とも呼ばれるが、厳密に確固たる具体性を有した「意思」である必要はない。もっと素朴な心理状態でよいとされている。

 

④「やむを得ずにした」とは、反撃行為が自己または他人の権利を防衛する手段として必要最小限度のものであることをいう。「手段の相当性」ともいう。

防衛者(被害者)がとった反撃行為が必ずしも唯一の手段であったことまでは要しないし、反撃によって攻撃者(加害者)に生じた法益侵害結果と攻撃者によって侵害されそうになった法益が完璧に釣り合いが取れてなければならないわけではない。

判例は当事者の性別、年齢、身体的特徴、武道・運動経験、武器の有無・種類、どのような状況下でなされたどのような行為だったかを非常に詳しく認定し、比べて成否を決定する方法をとっている。

 

そして、この④の必要最小限度のものという基準を超えた反撃行為に及んでしまった場合には、過剰防衛(刑法36条2項)の問題となり、成立が認められればその情状によって刑が任意的に減免される。つまり、犯罪は成立するが、防衛行為として行ったことが認められれば科される刑を軽くしたり、免除したりしてもらえることになる。

 

第3.痴漢vs安全ピン

1.痴漢行為の該当犯罪

 まず、痴漢が犯罪行為であることはいうまでもないことではあるが、どのような罪名の犯罪が成立するかを簡単に述べておく。

 

(1)各都道府県の迷惑防止条例違反(例:東京都 5条1項)

「何人も、正当な理由なく、人を著しく羞恥させ、又は人に不安を覚えさせるような行為であつて、次に掲げるものをしてはならない。」

 「公共の場所又は公共の乗物において、衣服その他の身に着ける物の上から又は直接に人の身体に触れること。」

これは読んだままなので説明するまでもないですね。

 

 

(2)強制わいせつ罪(刑法177条)

「13歳以上の者に対し、暴行又は脅迫を用いてわいせつな行為をした者は、6月以上10年以下の懲役に処する。13歳未満の者に対し、わいせつな行為をした者も、同様とする。」

ここにいう「暴行または脅迫」とは「相手方の犯行を著しく困難にする言動」をいうとされる。もっとも、わいせつ行為それ自体がこの「暴行または脅迫」にあたることは大いにありえるし、実務での運用もそうなっているようだ。特に痴漢事案では両行為は連続一体となっているから、その切り分けは実際上困難だろう。

 

両罪の区分は痴漢の行為態様によって決まる。

簡単に言えば、より悪質と評価できる態様で痴漢をしていた場合には強制わいせつ罪となり、比較的軽度なら条例違反ということになろう。その切り分けの基準は上記の「暴行または脅迫」要件が大きく影響するだろう。

 

2.いざ、尋常に勝負

 それでは、痴漢行為に対する安全ピンのぶっ刺し行為に正当防衛が成立するか検討したい。

(1)はじめにバトルフィールド…もとい設例を立てよう。

 通勤通学で混み合う朝の時間帯の満員電車内で、痴漢、痴漢被害者ともに成人とする。痴漢は男性、痴漢被害者は女性に多いと思われるので*2、そのように設定する。以下、痴漢被害者は「安ピン女」という。両者の年齢体格だが、いずれも20代中盤として、総務省「国民健康・栄養調査」より男女の平均的体格とする。両者とも公平に武道の経験はないものとする。

 

 上記の条件と行為態様をまとめて以下のようにしよう。

 痴漢(25歳・男・170.4cm 66.5kg)は,令和元年5月24日午前7時56分ころから同日午前8時10分ころまでの間,東京都三鷹市内のJR東日本株式会社三鷹駅から高円寺駅に至るまでの間を走行中の電車内において,乗客である安ピン女(25歳・女・158.7cm 51.8kg)に対し,下着の中に左手を差し入れその陰部を手指でもてあそぶなどし,もって強いてわいせつな行為をした。

 これに対し、安ピン女は、同日午前8時10分ころ、同電車内において、スカートの上から自身の臀部に執拗に触れる手指に対して、右手で持った安全ピン(針の長さ約2.5cm)を突き刺し、全治5日の加療を要する傷害を負わせた。

 同日午前8時13分ころ、中野駅到着時、電車内において、安ピン女が痴漢を指差し「この人痴漢です」と声を上げたところ、周囲の乗客によって現行犯逮捕された。繊維鑑定を含む微物検査の結果、痴漢の左手指には安ピン女の衣服の繊維が存在することが確認された。また、左手の甲には針の刺さったような傷があり、これは安ピン女の安全ピンによるものと確認された。なお、安ピン女には身体への傷害はなかった。

 

(2)検討

 安ピン女が安全ピンをぶっ刺す行為に出たとき、スカートの上から執拗に臀部に触れられていたのであるから、安ピン女の性的自由という法益に対する痴漢行為(少なくとも条例違反行為)という不正の侵害が、現に存在していたということができる。つまり、①②の要件を満たす。問題は③と④、「防衛の意思」と「手段の相当性」である。

 

 ③「防衛の意思」について、例えば安ピン女がこれ以上の痴漢行為をされないためにぶっ刺し行為に及んだ場合、「防衛の意思」が認められることに問題はなかろう。

しかし、例えば安ピン女は常日頃痴漢というものに恨みをもっており、痴漢された場合には、その状況を利用して恨みを晴らすべく安全ピンを使って積極的に攻撃する意思を持っていたと仮定するとどうだろうか?果たして「防衛の意思」ということはできるだろうか?

 この点について、判例は「防衛の意思」を欠き、正当防衛が否定される場合があるという。

「防衛に名を借りて侵害者に対し積極的に攻撃を加える行為は、防衛の意思を欠く結果、正当防衛とは認められない」

「が、防衛の意思と攻撃の意思が併存している場合の行為は、防衛の意思を欠くものではない。」最判S50.11.28刑集29.10.983)

つまり、相手方の侵害行為の機会に乗じた積極的な加害行為でしかないと評価される場合には、「防衛の意思」の存在を否定し正当防衛の成立を認めないが、防衛の意思と攻撃の意思が併存する場合には、「防衛の意思」を欠くとはいえないため、正当防衛が成立する余地が残るとした。

これは、積極的加害意思はもはや「防衛のための緊急の心理状態」とはいえないということだろう。ただし、加害行為に対して怒りを覚え、反撃するという心理状態もまた自然なものであるから、両者が併存している場合には「防衛の意思」が直ちに否定されはしないとしたのである。

 本件では、通常一般人であれば積極的加害意思のみを持ってぶっ刺し行為に出るとは思われないことから「防衛の意思」が認められることになろうが、仮に、日常の言動や事前準備、当日の状況などから積極的加害意思が認められる極めて限定的・仮定的な場合には、「防衛の意思」が認められず、正当防衛が否定され、結果として、傷害罪が成立することになる。

 

 ④「手段の相当性」についての検討に移ろう。安ピン女と痴漢の体格差は身長約12cm、体重約15kgに及び、痴漢の方が体格的に優れており、背後に密着して立たれれば相当の圧迫感や恐怖感を覚えることは想像に難くない。さらに、ぶっ刺し行為に出る直前まで行われていた痴漢行為は下着の中にまで手を差し入れるという、かなり強度の態様の行為である。安ピン女の感じた羞恥心や屈辱は想像を絶するものということができよう。そして、引き続いて臀部に触れてきたことから、これ以上の痴漢をやめさせるには実力行使に出るしかなく、また、その程度も体格差や満員電車で密着し身動きが取れない状況では、体をよじったり手で払ったとしても痴漢行為をやめさせられないおそれがあるため、比較的強度の実力でなければならないと思い至るについてもわからないではない状況にある。

 では、痴漢は素手であるのに対して安全ピンという「武器」を用いたとしても「やむを得ずにした」行為だといえるだろうか?これは「武器対等の原則」と呼ばれ、素手には素手、武器には武器のように、同等までの武器で臨むのが相当だろうという一応の判断基準である。もっとも、これは絶対の評価基準ではなく考慮要素のひとつであって、体格差や侵害の状況、他に取りうる手段がなかったか、などを総合的に判断することになる。
 引き続き本件について検討しよう。安ピン女は武器である安全ピンを用いているが、安全ピンは通常の方法では人を死に至らせるほどの傷害を与えることはできないであろう、強いとはいえない程度の武器である。そうすると、安全ピンの使用も必要最小限度性が認められるとも思える。

 もっとも、犯行現場は朝の満員電車内である。声を上げるなどして周囲の乗客に助けを求めることは、痴漢をやめさせるには不十分、不適当な行為だろうか?これによれば、痴漢の身体を傷害する必要はなかったのではなかろうか?
 確かに、痴漢被害者の心情として声を上げづらいのは理解できる。羞恥心だけでなく、朝のラッシュ時に被害を告発することで、痴漢の態度によっては電車の遅延を招きかねず、周囲の乗客の不興を買うかもしれないというおそれもあるかもしれない。

 しかし、本件の安ピン女は最終的に中野駅到着直前に「痴漢です」と声を上げ告発しており、安全ピンをぶっ刺すことなく痴漢を告発し、痴漢行為から逃れることが可能だったことが、逆説的に認められるのではなかろうか。

 もっとも、痴漢に生じた法益侵害の結果は加療5日の針刺し傷という軽微なものなのに対し、女性の人権を重視する今日の社会通念や、心理的に負うであろう傷の大きさからしても、安ピン女が侵害された性的自由権や名誉の価値は大きいものといえるだろう。

 

 以上を総合すると…「手段の相当性」が認められるかは、かなり微妙である。仮に、安ピン女が自ら告発していない場合には、それだけ声も上げられないほど心理的に圧迫されていたとして、手段の相当性が認められる方向に傾きそうである。他方、攻撃の意思と防衛の意思が併存していると認められた場合には、あえて他に取りうる手段である告発をしなかったとして、手段の相当性が否定される方向に傾きそうである。

それだけこのケースは微妙なのだ。いずれとも結論を出し難い。

 とはいえ、仮に手段の相当性が否定されても過剰防衛の成立が認められ、情状も悪くないため減免が認められることになろう。

 

第4.まとめ

 なんとも歯切れの悪い結果となってしまった。自分で設例を立てておいて、結論を出し難いなどとは…。しかし、法律の問題が生じる場面というのはえてしてそういうものなのだ。シロかクロか、0か100かでは割り切れないことがよくあるし、ごく些細な事情が結論を分けることになることもままある。今回は、まさにそのような事情なのだ。

 

 今回の検討から読者に伝えたいことは、痴漢には安全ピンなど用いる必要はなく、勇気を出して声を上げてほしいということだ。声を上げるのは何も被害者に限った話ではなく、周囲の目撃者も含めてのことである。冒頭にも書いたが痴漢をする者が最も悪く、根本の原因であることに疑いはないし、直ちに根絶することは難しいだろう。だが、少しずつなら変えていくことができるに違いない。女性の人権の尊重を当たり前の価値観として教育を受けてきた世代が、当たり前にその価値観を発現させれば、女性の人権の尊重の実現の一場面として働くことになるだろう。痴漢の現場を目撃した人もまた、是非とも声を上げて被害者を救って欲しい。

 

 そして、法律の議論としてこのような問題点があることを知った上で炎上を眺めてみてもらいたい。Twitterの炎上は前提となる知識の種類や有無で、見え方が全く違ってくる。 安易に一方に与するのではなく、その炎上はどこに摩擦が生じて起きているのかを見極めた上で自分の意見を持ってほしい。

 

以上

*1:正当防衛の正当化根拠のひとつ、法確証の原理と呼ばれるものの一部である。難しいので読み飛ばしてもらって構わない。)

*2:一般論として

刑事司法と報道の現状について

さっきの記事がめちゃくちゃ長くなってしまったので別記事にすることにした。単体でも読めるものにはなっているはずだ。

 

昨日に引き続きもういちど書いておくが、本来は、逮捕などの身柄拘束をされない状態での捜査が原則なのだ。

逮捕、勾留されてしまうと最低3日間、まずいと23日間も外に出られなくなる。仮に23日も無断欠勤したら?無断欠席したら?会社に席はあるだろうか?大学の単位は取得できるだろうか?年老いた親や幼い子供、ペットの世話は誰がするのか?

そういった意味で身柄拘束は極めて人権を制約する程度が強い。だから、警察は本来むやみやたらに身柄拘束するべきではないのだ。

 

それにもかかわらず、警察は極めてフランクに、気軽に逮捕する。裁判所も即OKを出す*1

保釈も同様で、原則として認められるべきなのになかなか認められないのが現状だ。

このように、原則と例外が転倒している状況が刑事司法には存在している。

 

そして、報道機関、メディアもそれに加担している。この異常な現状に異を唱えることなく、警察からリークされた逮捕の情報を連日熱心に報道をしている。

「無罪推定の原則」があるにも関わらず、逮捕された段階で実名で職業や住所まで公開する徹底っぷりだ。卒業アルバムまで公開する。さぞ愉快なことだろう。

 

他方で、逮捕が報じられた事件がどのような結末を迎えたかを報じるメディアがどれほどあるだろうか?有名重大事件しかやっていないどころか、それでさえ怠っていることがないか?

逮捕されても不起訴となるケースが極めて多いことを述べたが、なぜ不起訴となるのか丁寧に報じたメディアはあったか?必ずしも裁判を行うことが被害者のためにならないということを伝えたメディアはあったか?

 

報道機関のこのような捜査機関追従の姿勢が国民の認知を歪ませ、原則と例外が転倒していることにさえ気づけないようにしていることについて、報道機関は猛省すべきだ。

民主主義社会においては主権者たる国民が動かなければ法律も行政も変わらない。仕組み上変えられない。変えるためには国民の多くが正しく現状を認識しなければならないが、国民の知る権利に奉仕すべき報道機関はその役割を自ら放棄して捜査機関の暴走を追認どころか応援している。誤りを誤りと気づけない方向へと誘導している悪魔のような存在とさえ思う。

 

この記事を読んだあなたから、少しでも変わってもらえたなら嬉しいと思う。

 

以上

*1:裁判所は「逮捕状の自動販売機」と揶揄される

知ってるつもりの知識確認。犯罪をしたらどうなるの?

第1 はじめに

 皆さんは、ある人が犯罪をしたあとどうなるのか、ちゃんと説明できるだろうか?

適当にごまかして、なんとなく知ったつもりになってはいないだろうか?

前々から感じてはいたのだが、Twitterを中心とするSNS上では刑事手続に関する知識が曖昧なままに社会的な事件に対して意見を述べる人が多くいる。

その結果、別に怒らなくていいところに怒っていたり、怒りが的外れな方向に向かっていたりする光景をよく見る*1

これは極めて不幸な事態だ。その怒りは徒労なのだから。せっかく怒るなら正しく怒り、そのエネルギーを表現や運動に結びつけるのがコストパフォーマンスというものなのではなかろうか。人間の感情エネルギーだって有限だ。無駄遣いしてる場合じゃない。

というか、その怒りは無益どころか有害だ。別に怒らなくていいところで怒りを撒き散らせば、その誤った怒りが拡散され、共有されてしまう。怒らなくていい怒りを抱える人が増えるのは社会的な損失だ。

 

 話が少しばかり脱線したが、今回は知ってるつもりな刑事手続について解説する記事を書くことで、皆さんのニュースの読み方の助けにしてもらいたいという趣旨のものである。

 

第2 犯罪をしたらどうなる?

1.メディアによくある表現

 それでは本題に入ろう。まずはメディアではどのような犯罪報道がされているかを確認していきたい。ちなみに筆者は日頃ニュースをよく見てツッコミを入れているので、それなりに現状を把握しているつもりだ。

 犯罪報道でよくあるのは以下のパターンだ。

逮捕

 「A(犯罪)をした容疑で、B(場所)在住のC(名前)が逮捕されました。Cは容疑を認めているということです。」

送検

「Aをした容疑で逮捕されたC容疑者が、本日身柄を検察に送られました。」

「Aに違反の疑いで、B在住のCを書類送検しました。」

起訴

「Aをした容疑で逮捕されていたC容疑者が、今日起訴されました。」

初公判

「Aをした容疑で起訴されていた被告人Cの初公判が行われ、Cは『間違いありません』と起訴事実を認めました。判決は○月☓日に言い渡されます。」

判決

「Aをした容疑で起訴されていたCの裁判の判決が、今日ありました。裁判長は『社会的に重大な犯罪であって、Aの責任は極めて重い』とし、懲役1年6ヶ月の判決を言い渡しました。」

 

目にすることがあるのはこんなところだろうか。

レアケースとしては検察官の求刑を報道するケースもあるような。ともあれ、この程度だろう。

しかし、これらの報道はあまりにも不十分かつ不正確であって、刑事手続の知識のない一般人が見ても全体像を把握することはまず不可能だろう。

そこで、次は実際に行われている刑事手続の流れを確認していこう。

 

2.実際の刑事手続

刑事手続は逮捕を主とする身柄拘束を伴う場合とそうでない場合があるので分けてみていこう。

 

(1)身柄拘束がある場合

①犯罪事実の発生、警察による捜査活動の開始

②被疑者の逮捕(刑事訴訟法(以下、条数のみ示す)199条1項、210条1項、212条1項))★

③検察官送致(203条1項)★

④勾留の裁判(207条1項、60条1項)

⑤被疑者の勾留(207条5項)

⑥勾留延長(208条2項)

⑦起訴、不起訴の決定(247条、248条)★

 

・不起訴の場合

⑧不起訴処分(248条)★

⑨身柄の解放(98条1項)

 

 

・起訴の場合

⑧公訴提起(247条、248条、256条)★

⑨裁判

ⅰ冒頭手続(人定質問、起訴状朗読、黙秘権告知、罪状認否)★

ⅱ冒頭陳述(検察、弁護人)

ⅲ証拠調べ手続

ⅳ被告人質問

ⅴ論告・求刑

ⅵ最終弁論

ⅶ判決★

⑩判決の確定または控訴、上告

 

(2)身柄拘束がない場合

①犯罪事実の発生、警察による捜査活動の開始

②任意での捜査、取調べ(198条1項)

③検察官送致★

   ︙

以下、身柄拘束がある場合と同じ

 

 

3.比べてみる

いかがだろうか?報道機関の報道で報じられるものには★をつけておいた。

刑事手続はこんな感じの流れで行われている。

続いて、★のついたものを中心に解説していこう。

 

(1)容疑者と被疑者、被告人

昨日の記事でも解説したが、刑事訴訟法に「容疑者」という言葉はない。

捜査段階、つまり起訴され裁判にかけられるまでは、犯人だと思われる人物のことは「被疑者」という。

そして「被疑者」が起訴されると「被告人」と呼ばれるようになる*2

 

(2)逮捕

同じく昨日の記事でも解説したが、逮捕は逃亡または罪証隠滅のおそれがある被疑者の身柄を一時的(最大3日間、72時間)に拘束しておく措置である。

逮捕それ自体は処罰や刑罰やおしおきのようなものではない。

 

(3)送検、検察官送致

ニュースで書類送検という言葉を耳にしたことはあるだろう。しかしその意味まで正確に理解している人はそう多くないのではないだろうか。

正しくは「検察官送致」という手続きだ。

刑事事件の捜査はまず警察が行い、証拠や資料を集める。しかし、警察が裁判にかけるかどうかを決めるわけではない。それは検察官の役目だ。

そこで、検察官にこの被疑者を裁判にかけるかどうか判断させるため、警察が集めた証拠や資料を送ることになる。

この、事件の証拠資料を検察官に送ることを「検察官送致」というのだ。この証拠資料にはもちろん被疑者自身も含まれる。なので、送検されると検察官から取り調べを受けることになる。

つまり、書類送検というのは、被疑者が逮捕されていない事件の資料を警察が検察官に送ることを指す。

 

(4)勾留

ニュースでは逮捕とひっくるめて扱われているのが勾留という措置だ。勾留も逮捕と同じく警察に身柄を拘束される措置だ。

逮捕は最大72時間の身柄拘束だが、それに引き続く勾留は最大20日に渡って拘束されることになる。

勾留も逮捕と同様に逃亡と罪証隠滅を防止して事件の捜査をすすめるための措置である。

 

(5)起訴(公訴提起)

検察官が、ある事件、被疑者について裁判をすべきと判断することを起訴という。正確には公訴の提起という。

被疑者が逮捕、勾留されている場合、逮捕されたときから合計23日以内に起訴するかしないかを決めなければならない。

この手続を境に被疑者は被告人と呼ばれることになる。

 

(6)不起訴

検察官が、ある事件、被疑者について裁判をしなくてよいと判断することをいう。法律に規定があるわけではないが、不起訴の理由によって起訴猶予、処分保留、嫌疑不十分などに分けられる。

起訴するかしないかは検察官に広い裁量、つまり判断の自由が与えられているので、例えば犯罪の嫌疑が濃厚だったとしても、軽微な事件の初犯でとても反省しているし弁償もしているという場合、起訴猶予として不起訴にすることができる。

また、被害者との間で示談が成立している場合にも処分保留で不起訴とされることが多い。被害者が納得しており処罰を望まないのであれば、無理に裁判する労力は削減しよう、というわけである*3

 

実は、不起訴となるケースはとても多い。

犯罪白書(平成29年版 犯罪白書 第2編/第2章/第3節)によれば、検察官送致されたうち、起訴されたのが7.8%なのに対し、実に62.8%が不起訴処分なのだ。

起訴に略式命令を含めても31.4%なので、圧倒的に不起訴が多い

 

(7)裁判

被告人が公開の法廷で、起訴されることとなった事実が存在するかしないかを調べ、判断し、刑罰を決定する司法作用が裁判である。

逆転裁判のように1日で終わったりしないし、真犯人を探したりしない。

あくまで被告人がその犯罪事実をやったのかどうかを、証拠に照らして判断する手続きだ。異議あり!」はたまに出る。

 

(8)判決

裁判の最終結果が判決である。この判決が確定することで、刑罰が確定する。

逆からいえば、有罪判決が確定するまでは「被告人はシロ」である。犯罪者扱いされるいわれはない。有罪判決が確定した時点で初めてクロになるのである。これが有名な「無罪推定の原則」である*4

 

(EX)保釈

勾留されている最中に身柄拘束をしている必要がなくなった場合、そのまま勾留し続けるのはどうかしている。そこで認められているのが保釈という制度である。

勾留の理由、必要がなくなった場合には、勾留の期間中であっても途中で勾留を打ち切り、出てくることができる。

 

今話題のカルロス・ゴーン氏のはこれである。

ゴーン氏は起訴された後も捜査を継続されているそうだが、検察が起訴したということは、裁判に必要な証拠は集めたということである。そうだとすれば、すでに証拠を集めたのに、ゴーン氏が隠滅できる証拠とは一体なんだろうか?という疑念が湧くはずだ。そういうことで保釈が認められ、外に出てきたのである。

 

ただし、保釈は無条件に認められるわけではない。保釈保証金を預けなければならない。保釈保証金はその人ごとに金額が異なる。収入などによって裁判所に決められる。

保釈保証金は「逃亡しないでちゃんと裁判の日には出頭するんだよ!」という心理的強制をかけるものなので、ちゃんとすべての裁判に出頭すれば返してもらえる。逃げると全部持ってかれる。ゴーン氏なら15億円没収である。

 

 

第3 まとめ

ここまでかなり長くなってしまったが、これでもかなり省略している。

読者の方にはおわかりいただけていると思うが、報道機関による伝え方では、刑事手続が何をやっていてどんな意味のある行為なのか、正確に伝わっていないことがわかるのではないだろうか。

 

4月19日に発生した池袋の交通死亡事故では被疑者が逮捕されず、任意での捜査が行われる見込みだとの報道がなされた結果、一部の人々*5が怒り狂い、「上級国民」許すまじとの潮流が形成され激しく燃え上がった*6

 

しかし、この記事で述べた刑事手続の流れを理解していれば、決しておかしなことではないとわかってもらえるだろう。

逮捕されるかどうかは起訴されるかどうか、有罪となるかどうかには一切関係がないのだ。

裁判の傍聴にいくと稀に見られる光景なのだが、判決の言い渡しをされる裁判の日に、身柄拘束されていない被告人が大きなバッグを持って裁判に出席することがある。この大きなバッグの中には主に着替えが入っている。

この光景、身柄拘束はされていないものの実刑判決が下されることが濃厚な場合に見られる。有罪判決が下された場合、即時執行され、裁判所からまっすぐ拘置所、そして刑務所へ向かうこととなるからだ。

これで分かる通り、判決前の身柄拘束と判決の有罪無罪はまったく関係がない

 

池袋の件の被疑者は今後、任意での警察、検察からの取り調べや実況見分への立会い、その他の捜査への協力、裁判所への出頭が求められることになるだろう。

そして今回のケースでは、まず間違いなく正式な裁判がなされることになる*7

どのような判決が下されるかは証拠によらねばわからないが、そこで適切な*8判断が下されることになるだろう。

 

読者のみなさんにおかれては、正しい刑事手続きの知識のひとかけらを頭の片隅に置いておいて、どうか冷静にニュースを見て考えるようになってもらいたい。

 

 

以上

 

*1:直近では性犯罪無罪判決に対する一連のムーブメントがこれに当たる。

*2:「被告」ではないので注意が必要である。「原告」「被告」というのは民事訴訟でのみ用いられる言葉だ。

*3:この不起訴の論点でも最近とても誤解が多いため苦々しく思っている。

*4:厳密には違うのだが一般的にはこっちの意味が強い。

*5:一部だと信じたい

*6:ある交通事故では逮捕され、ある事故では逮捕されないのは不公平、不均衡では?という疑問はこちらを参照ください。

*7:交通事故の場合、略式裁判という簡易な形式の裁判も存在する。

*8:公平で公正な