雑記帳

なんか書く。疑問、質問、批判等はコメント欄かマシュマロにどうぞ。

池袋交通事故に伴う諸問題について

 

第1 はじめに
 ここ数日、連続して極めて痛ましい交通死亡事故が発生している。具体的に想起しているのは以下の3件である。

4月19日池袋での2名死亡、8名負傷の事故

池袋で乗用車とごみ収集車が衝突 女性と女児が死亡[写真特集3/13]- 毎日新聞

同21日神戸での2名死亡、6名負傷の事故

神戸のバスが歩行者をはね運転手を逮捕 男性1人の死亡を確認 - ライブドアニュース

同23日木更津での1名死亡、1名負傷の事故

千葉・木更津で小3死亡する事故 目撃者「赤信号、減速せず突っ込んだ」 | ハフポスト

いずれも死者を伴う重大事故であって、御遺族の心痛は想像に難くない。
御遺族の心の傷、被害者の怪我の回復はもちろんのこと、原因の究明、社会的な対策の実施、被害の賠償などが早期に解決することを願いたい。

 

 ところで、池袋の事故について、ネット上では「炎上」している。
すでに複数のメディア、特にネットメディアでは記事となっているため、目にした人も少なくないだろう。

池袋で87歳運転の自動車暴走し2人死亡 「上級国民だから逮捕されない」と憶測流れる|ニフティニュース

 炎上の内容は要旨こんな感じだ。
「事故車両の運転手が警察に逮捕されず、病院からの退院後も在宅で任意の捜査しか行われないし、さらには報道各社が『容疑者』と呼称せず、『さん』付けで呼んでいるのは。運転手が『上級国民』だからに違いない。」
というものだ。

 

 そこで今回は、この炎上の内容の当否について法律を学んだ者の観点から検討してみたい。
問題点は2つある。ひとつは被疑者が逮捕されないこと。もうひとつは被疑者が「さん」付けなことである。


第2 逮捕されないことについて

1.逮捕についての知識
 まず、逮捕の基本的なことがらについて確認しておこう。

逮捕とは、被疑者の身体を短期間拘束しておく処分である。最大3日間、警察が身柄を拘束できる。
あくまで捜査のための措置であって、刑罰とかおしおきとか拷問とかそういうたぐいのものではない。
よいだろうか、逮捕それ自体は刑罰とか罰則とかそういうものではないのだ。

 

 警察が被疑者を逮捕することができる場合は憲法と法律によって「逮捕の理由」と「逮捕の必要性」がある場合のみ認められることとされている。簡単に言うと、

(1)罪を犯した疑いが濃厚である
(2)-1逃亡の恐れがある
(2)-2罪証隠滅の恐れがある

(1)は必ず必要だが、(2)はいずれかがあればよいとされている。

 

以上は通常逮捕の場合だが、現行犯逮捕の場合は少し条件が変わる。
現行犯逮捕の場合は(1)が、
(1)'逮捕する人から見て、被疑者が犯罪を行ったことが明白なこと
に変わる。(2)も必要であるとされる。


2.逮捕されない場合
 1.で示した逮捕のための条件をまとめると、
被疑者が罪を犯した疑いが濃厚な場合や、被疑者が罪を犯したことが明白な場合であっても、逃亡も罪証隠滅のおそれもないと認められるなら、警察は逮捕してはならないということになる。

そう、罪を犯したことが明らかであっても、警察が逮捕してはならない場合があるということだ。

 

具体的な例を考えてみる。
XがYを殴ってケガをさせたが、Xが全面的に罪を認めている、というケースが考えられる。
ケガの箇所は程度は変化するものではないから、物理的に傷害罪の証拠を隠滅するというのは考えづらい。
Xは家庭のある人間で仕事もしていて、身元を保証する人間がたくさんいて、捜査には必ず応じるよう協力を申し出てくれているため、逃亡のおそれも認められない。
そうすると、(2)のいずれの条件も認められないから、逮捕をしてはならない、ということになる。


 このように、逮捕できないケースというのは想定できる。
実際、法律はこのような運用を前提として規定している。あくまで任意での捜査活動が原則であり、身柄拘束という被疑者の社会生活を強く制限する捜査手法は例外的な場合のみにとどめておこう、という法の立て付けがされているのだ。

 

3.逮捕の現実の運用
 しかし、現実はそうはなっていない。警察は極めてフランクに逮捕する。
逃亡の恐れも罪証隠滅の恐れもめちゃくちゃ簡単に認められる。もうそんなおそれがあるんだかないんだかわかんないくらい抽象的なおそれだけで認められちゃう。

 そのため、社会の一般人には

犯罪をする=逮捕される

という構図が常識として刷り込まれているのだ。


4.今回のケース
 池袋の件で被疑者が逮捕されていないのは、上記(2)の条件のいずれもがないからだということになる。
 なるほど確かに、本件は交通事故であって、証拠物である事故車両は警察によって差押えられており、また、道路上の痕跡や防犯カメラの映像などその他の証拠も多数存在している。さらに、事故は白昼の大通りで発生していて目撃者も多数存在している。
このような多量の証拠物、証人がいる場合には、被疑者による罪証隠滅は考えられない、といえるだろう。

 では、逃亡のおそれはどうだろうか?
被疑者は大手企業の元役員の資産家で、勲章を授与されるほどの社会的地位を有する人間である。
家族も、住居も、資産もあることだろう。果たして、それらをすべて投げ売ってまで逃亡するだろうか?
そういう意味で、逃亡のおそれがないと判断されたのだろう。


 そう、いわゆる「上級国民」と呼ばれる人たちは、逃亡のおそれの判断で「まさか現在の家族や住居や資産を捨ててまで逃げたりしないだろう」ということを考慮されるから逮捕されないことが多いのだ。
そういう意味で、「上級国民は逮捕されない」という論は正しい


5.課題
 ここまで読んでくれた賢明な読者の方はお気づきだろうが、この「上級国民」の逮捕問題は、警察(と裁判所)に最も大きな問題がある。
警察が、法律の原則に従って逮捕を伴わない捜査活動を通常にしていないことが問題なのだ。
おかげさまで国民は皆、犯罪をしたら逮捕されるのが当たり前だと見事に勘違いしている。さらには刑罰の一種みたいなものだとまで思い込んでいる。

本来は、上記の「上級国民」的な考慮は一般的な人々にだって適用されておかしくないのだ。むしろ、そちらが本筋だといえる。多くの人は、家族がいて、家があって、少なくたって資産があるのだ。


これを読んだ読者の皆さんにおいては、この記事の内容をなんとなく頭の片隅にでも入れて、ニュースなどにあたってもらえると嬉しい。

 

第3「容疑者」と呼称されないことについて
1.「容疑者」とはなんなのか
 テレビや新聞などのメディアで犯罪の報道に目をやると「容疑者」という言葉を必ず目にすると思われる。
しかし、法律では「容疑者」という言葉は使われていない。つまり、メディア独自の造語である。
では「容疑者」の意味するところはなんなのか。
今回の炎上騒動に反応したメディアの記事によると、どうやら「身柄拘束または指名手配された犯罪の被疑者」を指すという。
(参照:池袋の母娘の死亡事故、メディアが「容疑者」と報じない理由とは? | ハフポスト


しかし、判然としない。

ウィキペディアによれば、容疑者は被疑者と同じ意味で、被疑者の読みが「被害者」と似ていて紛らわしいから変えたとされている(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%96%91%E8%80%85https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%96%91%E8%80%85)。

被疑者というのは、犯罪の嫌疑があって捜査の対象となっている者をいう。身柄拘束がされてようがいまいが関係なく被疑者である。

つまり、容疑者=被疑者だというのなら、容疑者と報道するかしないかの判断に、身柄拘束の有無は本来関係がないのだ。


2.「容疑者」と呼称されない理由はなんなのか
 仮に、容疑者の定義が前述の通り身柄拘束を前提とするものだとすると、池袋の件の被疑者だけが容疑者と呼称されず「さん」付けだったのは、一応筋が通る。
しかし、そんなバカな話もあるまい。


結局、メディアが「忖度」しただけなのだ。
そしてメディアが「忖度」する理由は想像する他ないが、「上級国民」だからなのだろう。
「上級国民」がどんなスポンサーとつながりを持っているのかを考えれば、不用意に名誉を貶める表現は避けたい、ということなのだろう。

 

3.課題
 ここまででわかってもらえただろうが、「容疑者」に厳密な定義などなく、結局のところ、メディアが都合のいい使い分けをしているだけにすぎない。
法律を学んだ者からすれば、罪を犯した疑いのある者は皆「被疑者」であり、起訴されれば「被告人」と呼ぶのが当たり前である。
こういう細かいところで恣意的な表現をするからメディアは信頼を喪失していくのだ。せっかく法律というハードなルールがあるのだからそれを使わない理由もないだろうに。
そういうメディアの「忖度」が国民の「炎上」に結果的に加担してしまっていることになっていることに、メディアは深く反省すべきだ。
そして、日頃の犯罪報道の在り方を見直すべきだ。メディアの現在の報道の仕方があるがゆえに、「逮捕=犯罪をした」という図式を国民に植え付けたのは、まず間違いなくメディアの責任だ。


第4 まとめ
 今回の「炎上」は、2つの異なる問題が絡んだことが大きく燃え上がった理由の1つになっていることは疑いようがないだろう。
今回の複数の交通事故はどれも重大で、悲惨であることは間違いない。
こんなときに、奇妙な不公平感で国民の怒りを煽るのは全く得策ではないし、国民はそんなところに労力を割くべきではない。
悲惨な事故をいかに減らしていけるか、社会としてコストをいかに負担していくべきなのか、そういう議論をすべきだろう。
そのためにも、警察とメディアには改善を強く要請せずにはいられない。
2つの「権力」が正しく働かなくては、国民は正しい議論、選択を行うことができないのだから。

 

以上

けものフレンズ2の問題点 その1

・はじめに

 本稿は、けものフレンズ2(以下、「本作」という。)という作品の問題点について簡単にまとめるものである。

 あくまでも本作全12話及びけものフレンズ1期(以下、「前作」という。)全12話を視聴した筆者の私見である。

 基本的には本作及び前作視聴者向けに書いているが、前作のみの視聴者でも、いずれも未見であってもわかるように記述するよう心がけている。

 

 本稿は、本作の製作過程において発生した数々の問題、疑惑からは距離を置き、純粋に作品の批評を行うことを目的としている。すなわち、作品の描写から読み取れる内容でもって評価を行う*1

 

以上を前提とし、お読みいただければ幸いである。

 

第1.本作の問題点
本作の問題点は大きく2つに分けられる。

第1に脚本、シナリオの問題である。第2にこれまでの「けものフレンズ」の否定としか捉えられない描写の問題である。

以下、順に論述する。


 なお、モーションの陳腐さもまた問題点となりうるが、上記の点に比べれば些末な問題に過ぎないため本稿では取り上げない。

 

第2.脚本、シナリオについて
本作のシナリオの問題点は多岐に渡るが、1.テーマ選定、2.物語としての稚拙さを語れば十分と思われるため、論述するのは以上の点に限る。

 

1.テーマ選定
 本作は、「けものフレンズ」という看板を掲げて扱うべきでないテーマを扱っており、そもそもテーマ選定の時点で誤りを犯している。
 監督の木村氏及び脚本のますもと氏は本作のテーマを「人間にとって家とはなんなのか」「ヒトが持つ社会性」をテーマにしたと語っているが、本質的ではない。少なくとも、作品の描写ではこれらをテーマと位置づけることは困難だ*2

 

 それでは本作のテーマはなんだろうか? 

描写から読み取れる本作のテーマは、「ヒトの動物に対する業」であると考える。これらは出演動物の選定と脚本の基本構成から読み取れる。

(1)本作の出演動物は、明らかに現実においてヒトとの関係が密接な動物が選ばれている。すなわち、家畜化、狩猟対象、絶滅危惧による保護対象となった動物たちである。
イエイヌやブタは家畜化されたことで野生の生存競争から逃れたが、人の経済社会に組み込まれ、野生動物としての自由を失った。
ゴリラやパンダ、アムールトラは人間の開発や狩猟により数を減らし、その反省として保護される存在となった。
ハブやリョコウバトは、人間の都合で狩猟され、数を減らす存在である。特にリョコウバトは、人間の動物に対する最も愚かな所業として語られる、極めて有名な動物である。

 

(2)本作の脚本の基本構造は、そのような動物をモチーフとしたキャラクターに対して、ヒトをモチーフとしたキャラクターが高位の存在として、与え、施し、使役し、滅ぼすことで、動物間に生じた問題を解決する、という構造をとっている。
 基本的に、動物をモチーフとしたフレンズたちは、ヒトをモチーフとしたキュルルやかばんに比して「愚か」な存在として描写されている。
キュルルがほぼ毎話、一緒に旅をするサーバルカラカルに対して呆れたり怒ったりする描写があるのはその表れだと読むことができる。

ほぼ毎話、キュルル*3が(子供騙しな)娯楽を提供することで、「すごい」と言わせるあたりも同様である。
さらに、キュルルはともかく、前作では「さん付け」していたかばんちゃん*4までもがフレンズを呼び捨てにしていたのは、キュルル単体の問題ではなく、ヒトという種族を包括して上下関係を描写したといわれても仕方あるまい。

 

そして、最も顕著なのは、「ヒトは動物を支配する存在だった」と言明し、そうなったという点だろう。

本作第5話では、諍いを鎮めるために協力を求められた際のゴリラの言だが、キュルル本人は支配者であることを否定し、さらに、支配者然とした態度をとることには失敗する。

 しかし、ここでキュルルが失敗したのは「力による支配」を演じようとしたからでしかない。現実において、ヒトが動物の支配者たりうるのは、力による支配が可能だからではない。知恵による支配をしているからである。

結局、このあとキュルルは(子供騙しな)娯楽を提供することで諍いを治めることに成功し、一目置かれた存在となった。つまり、知恵によって動物たちを支配下に置いているのである。

 

 同様に、第3話及び第9話ではヒトの家畜に対する態度が描写されている。ヒトの存在と命令なくしては生きられなくなった動物をモチーフとするフレンズたちに、唯一のヒトとして命令を与えるという描写は、動物の支配者としてのヒトそのものである。

 

(3)以上を総合すると、本作は、人間が動物に対してしてきた所業を、キュルルが素朴な行動としてなぞっていくことで、人間は動物に対して優位の存在であり、また、本来的に脅威であるということを表現している。まさに「ヒトの業」にほかならない。

 

(4)そして、このテーマは「けものフレンズ」に適さない。

 なぜならば、前作ではこの「ヒトの業」をあえて否定し、「動物としてのヒト」を描くことで世界観を確立したからである。これが、前作の評価によく現れる「優しい世界」につながっている。
 我々は教育を経てきた過程で「ヒトの動物に対する業」を学ばされてきた。絶滅した、あるいは絶滅の危機に瀕した動物たち、環境破壊による動物の生息域の消失、捨てられたペットの殺処分、虐待…。
そのような過去と現状があるからこそ動物は守らねばならないと誰もが教えられてきた。

 しかし、それは決して心地よいものではない。なぜなら、大多数の人間にとっては直接関係がなく、実感できないことであるにもかかわらず、説教じみたことを言われているからである。自分がやってないことなのに怒られている気がするのである。

 

 前作では、ヒトと動物とを別異な存在と位置づけるのではなく、ヒトをただ一種の動物に位置づけ、「ヒトの業」から解放された対等な「動物」として描いていたからこそ、それぞれがそれぞれの特徴を活かして協力しあう姿に、これまで経験したことのない感動を覚え、優しさを感じ、心を動かされたのだ。

とうの昔に語り尽くされ食傷気味だった「ヒトの業」というテーマをあえて排することで、「動物としてのヒト」という骨太のテーマを描ききったのが前作けものフレンズなのである。

 

 したがって、本作で「ヒトの業」をテーマとして選定することそれ自体が後退であり失策にほかならない。


 なお、語られきったテーマをあえて描くという選択をした可能性も捨てきれない。しかし、それでも失敗であるという結論は変わらない。
そのような選択をする場合、「『語られきったテーマをあえて排して選択されたテーマ』をあえて否定した、語られきったテーマでありながら新しい、第3のテーマ」となる必要がある。単に「語られきったテーマ」を描くだけではただの凡庸化か退化だからである。

(①語られきったテーマ→②①をあえて排したテーマ→③②を排し①でありながらも第3のテーマ)
本作ではただの退化であったと断じよう。


2.物語としての稚拙さ
語るまでもないかもしれないが、そもそも物語として稚拙である。

 まず、全体として、物語の展開の軸が多すぎる。シーズンを通して解決すべきだった問題は、キュルルの正体、「おうち」、ビースト、海底火山、海水を克服したセルリアン、フレンズ型セルリアンあたりであろうか。
少なくともこれらについては明示的に問題とされ、伏線も描写されていたが、解決されたのはキュルルの正体とフレンズ型セルリアン問題くらいだろうか。キュルルの正体も怪しいところではあるが。
 クール制で制作されることがわかっている以上、少なくとも本筋に関わる問題について、そのクール内で決着をつけられていなければアニメとして論外であろう。

 

 次に、エピソード単位の問題として、キャラクターがアホ過ぎる。というのも、「こういう展開をしたい」というのが先行してキャラクターを動かしているがために、キャラクターの行動が突飛になっている。その結果、キャラクターが動物の擬人化ゆえの行動をとっているとかではなく、ただのアホになっている。
前作ではヒトの特徴たる頭脳をもってフレンズと協力して問題解決にあたっていたかばんちゃんでさえ、考えなくてもわかるようなことをわかってなかったり、自分が持ってる本を読んでなかったり、とにかくアホになっている。

 他にも尺の使い方が下手とかいいたいことはまだまだあるが、とにかく物語として出来が悪い。

 

 以上2つの根拠でもって、脚本・シナリオの完成度の低さを結論づけたい。

 

続き(第2.これまでの「けものフレンズ」の否定としか捉えられない描写以降)については後日書きます。たぶん。

 

*1:文章の読解と同様の作業である。妄想とは区別されなければならない。

*2:物語にはテーマが存在するのが常である。テーマはその物語の主題であり、物語全体を通じて受け手に伝えたいことである。もっとも、テーマは作品に明示されるものではないため、受け手が読み解かねばならないものであるのが基本である。制作陣が語ったものが全てとは限らず、表現物から読み解くのが基本である。

*3:本作の主人公

*4:前作主人公